安土 城攻め・寺攻め その1
いずれは行きたい行きたいと思っていた、幻の城、安土城。そしてついに、先日の9連休の時に城攻めを敢行。安土城だけではもったいないので、近くにある観音寺城、観音正寺、博物館等々も合わせて攻めてまいりました(^.^)
遊びに行く時の早起きは苦になりません。今回は車ではなく、あえて自転車で回ることにします。あとで、この選択が良かったんだか悪かったんだか、思い知ることになるんですが(^^ゞ
左:安土駅。2時間ほど電車に揺られて8時半過ぎに到着。自転車を借りようと安土観光レンタサイクル(ふかお)に寄りますと、店のおっちゃんが自分で作ったパンフや資料をもとにいろいろ説明してくれました。自転車借りるのならこのお店がお勧めです(^.^)
右:10分ほど自転車を漕ぐと、目の前に観音寺城がある繖(きぬがさ)山が。乗ってすぐなのにふもとに自転車を置いて、歩きになります。
観音寺城跡へ行くには、桑実寺を通らなければなりません。入山料300円かかりますが、お寺もついでに見れるのでこれはこれで、もったいないとは思いません。
■桑実寺■
桑実寺(くわのみでら)は滋賀県蒲生郡安土町にある天台宗の寺院。山号は繖山(きぬがさやま)、本尊は薬師如来、開山は定恵(じょうえ)。別名桑峰薬師。
標高433メートルの繖山(観音寺山)の中腹にあり、西国三十三箇所観音霊場の32番札所である観音正寺へと登る途上に位置する。
寺伝では、天智天皇の四女、阿閉(あべ)皇女(元明天皇)の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨し、阿閉皇女の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建したと伝えられている。寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。
1532年には室町幕府13代将軍足利義晴が、ここに仮の幕府を設置。一時期荒廃していたが1576年、織田信長によって保護された。1582年には、安土城の女中たちが信長の留守中に禁足を破って参拝に訪れたことを信長が咎めて、女中たちと擁護した桑実寺の高僧たちを殺害するという事件が起きた。(Wkipediaより)
この石段を延々15分あまり登って、寺の山門に到着。すでに息切れしてます(^^ゞ センサーがあるので、通るといきなりピンポーンと鳴ります。前もって知ってなければ、驚いたことでしょう(^.^)
左:本堂。入母屋造・桧皮葺で創建時(南北朝)の姿をそのまま残し、国の重要文化財に指定されています。
右:本堂内。本尊の薬師如来は秘仏としてこの厨子の中にあるんでしょう。
桑実寺から観音寺城跡へ続く道があります。ここから、延々上り坂。
生い茂る木々のおかげで日陰になっていたのが救い。30分ほど歩かないと観音寺城にはたどり着きませんからね。水分内と多分死にます。真夏だと確実かも(^.^)
■観音寺城■
室町期~戦国期の山城。滋賀県蒲生郡安土町石寺にあり、標高433メートルの繖(きぬがさ)山一帯が城址である。近江南部の守護、守護大名そして戦国大名へと成長発展を遂げた佐々木六角氏の本城で、古く南北朝期にも利用していたというが明らかではない。六角高頼が応仁の乱(1467~77)のころ用いていたことが確実である。戦国期、六角定頼、その子義賢(法名承禎(しょうてい))、さらにその子義治(義弼(よしすけ))の3代が全盛時代。鉄砲が伝来した義賢のとき、石垣を築いている。1568年(永禄11)織田信長に攻められて落城した。全山に無数の曲輪があり、まだその総数は正確に数えられていないが数百に及ぶ。また1969年(昭和44)から発掘調査が行われ、石段、井戸、庭園のほか排水のための暗渠なども出てきた。石垣は安土城と同じ穴太流の積み方である。 (Yahoo!百科事典より)
左:山道を進むといきなり虎口が。本丸食い違い虎口。
右:三の丸から本丸へ上がる階段。巧みな石積みで排水溝が作られていました。
左:本丸虎口近くにある太夫殿井戸跡。本丸に井戸があるは当たり前ですが、ここは標高395mですからねぇ。どこまで掘ったんでしょうか?
右:本丸。ここには「二階御殿」と言われた施設があったのではと言われています。
左:平井丸のみごとな虎口。平井丸には平井氏の居館があったのではないかと思われています。
右:池田丸。最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっています。
レンタサイクルのおっちゃんにもらった資料を見ると、全山をもって城塞となっていたようで、日本五大山城の名に恥じませんね。わたしが見たのもほんの一部。たとえ石垣しかなくても、そこには歴史があるのです。こんなに楽しいお城もないですよ。30分歩いてきた疲れも吹っ飛びました。
人っ子一人いない山の上で、カメラ片手にうきうきしながら歩き回っていたことはいうまでもありません(^^ゞ
観音寺城から10分ほど歩くと、観音正寺へ着きます。ここは西国32番札所。ここもメインの目的地ですからね。
■繖山 観音正寺(きぬがさやま かんのんしょうじ)■
観音正寺(かんのんしょうじ)は、滋賀県蒲生郡安土町にある天台宗の寺院。山号は繖山(きぬがささん)。本尊は千手観音。西国三十三箇所第32番札所である。
琵琶湖の東岸、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂近くに位置する。伝承によれば、推古天皇13年(605年)、聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるという。聖徳太子はこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより一寺を建立したという。その人魚は、前世が漁師であり、殺生を業としていたために人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。寺にはその人魚のミイラと称するものが伝えられていたが、平成5年(1993年)の火災で焼失してしまった。
「聖徳太子が人魚の願いにより建立」云々という話が後世の仮託であることは言うまでもない。ただし、滋賀県の湖東地方には他にも長命寺(近江八幡市)、石塔寺(東近江市)、百済寺(東近江市)などの聖徳太子開基伝承をもつ寺院が点在し、その多くが渡来人ゆかりの寺院であることは注目される。
観音正寺が位置する繖山には、室町時代以来近江国南半部を支配した佐々木六角氏の居城である観音寺城があり、寺は佐々木六角氏の庇護を得て栄えた。観音寺城は永禄11年(1568年)、織田信長の軍勢に攻められて落城。数年後には佐々木六角氏所縁の観音正寺も焼き討ちに遭い、全焼した。再興されたのは慶長年間(1596年 – 1615年)のことである。
観音正寺の本堂は平成5年(1993年)に失火で焼失した。交通不便な山中にある寺院のため、消火活動もままならず、重要文化財に指定されていた本尊千手観音立像も焼失してしまった。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものである。新たに造立された本尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。旧本尊が1メートル足らずの立像であったのに対し、像高3.56メートル、光背を含めた総高6.3メートルの巨大な坐像である。像はインドから輸入した23トンもの白檀を素材に作られている。白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺の住職が、20数回インドを訪れ、たび重なる交渉の後、特例措置として日本への輸出が認められたものであるという。(Wikipediaより)
左:観音寺城跡から来るとここにでます。階段上がると濡れ仏がありました。
右:表参道から登ると、仁王像が出迎えてくれます。このお寺は山門がないことから、この仁王像が山門をあらわしているのかもしれません。
左:真新しい本堂。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものです。
右:本堂横にある石積み。別に深い意味はなく、ただ山崩れを防ぐために積んであるとか。しかしどう見ても意味ありげにしか見えない(^.^)
能登川の参道側から来ていないので、そのあたりの散策は次回に。観音寺城の遺構もこちらにもあるみたいですしね。奥の院も見ていないし。
そして、来た道を桑実寺まで戻ります。登りより降りの方が楽なように見えて、実は足に来るダメージは大きいんですね。お寺まで戻った時には、膝がガクガクしていました。
9時に入山して、下山したのは12時過ぎ。山ん中に3時間以上いたわけですが、もう、楽しくて楽しくて。また来たいです。ただし、夏は避けて(^.^)
今回はここまで。次回は安土城まで紹介できるでしょう(^.^)/
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