堺文化財特別公開

先週のことになりますが、堺文化財特別公開に行ってまいりました。
堺文化財特別公開とは、堺市の普段公開されていない社寺など貴重な建物や所蔵品など、歴史的名所が特別公開され、春秋に開催されています。
特別公開とあっては、これは行かねばなりません(^.^) 前期後期と公開時期が分かれているうえに、一日ではまわりきれないので、ほんとうなら2日に分けていきたかったんですけど、舞台本番と重なっているので、それは断念。要所だけ絞って回ることにします。
南海堺駅で、自転車をレンタルし、寺社めぐりスタート! 以下、今回巡った寺社をざくっと紹介します。


■龍興山 南宗寺(りゅうこうざん なんしゅうじ)■
「南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。山号は龍興山。開山は大林宗套、本尊は釈迦三尊である。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした、ゆかりの寺であり、沢庵和尚が住職を務めたこともある。堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。
弘治3年(1557年)当時、畿内髄一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶(みよしながよし)が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大徳寺90世の大林宗套に開山を依頼して、創建したものである。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。
天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、さらに慶長20年(1615年、7月に元和と改元)の大坂夏の陣では堺の市街とともに焼失したが、その後、当時の住職であった沢庵宗彭によって現在の場所に再興された。現存する仏殿、山門などは沢庵の没後、17世紀半ばに整備されたものである。太平洋戦争の空襲で一部の建物を失ったが、境内は江戸時代の禅宗寺院の雰囲気をとどめている。」(Wikipediaより)
南宗寺001  南宗寺002
左:特別公開中はこちらが入口になるみたいです。
右:承応2年(1653年)建立の仏殿。天井には狩野信政筆になる「八方睨みの龍」が描かれています。十畳文化財。
南宗寺003  南宗寺004
左:座禅修行の道場である禅堂。明治4年建立。
右:唐門。仏殿の右方にある小規模な門で、仏殿と同時期の建設と思われる。重要文化財。
南宗寺005
山門。甘露門とも呼ばれる。 正保4年(1647年)の建立で重要文化財。
特別公開は、本堂障壁画および方丈の枯山水庭園等でしたが、撮影禁止・・・(T_T)


■千利休屋敷跡■
「堺の豪商魚屋の長男として生まれた与四郎は初め北向道陳に茶湯を学んだが、更に道陳の師武野紹鴎に師事し、遂に「わび茶」を大成させた。
千与四郎は、茶名千宗易といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜った。また、壮年時には抛筌斎(ほうせんさい)とも号していた。
天正十五年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。その後天正十九年(1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治九年南宗寺に移築、第二次大戦で焼失昭和三十五年七月復典)がある。」(千利休屋敷跡案内板より)
屋敷跡001
ビルの谷間の細い通りに面してぽつんとあります。地図がなければ見落としそうです。


■宿松山 海会寺(しゅくまつざん かいえじ)■
「宿松山海会寺は臨済宗東福寺派で、堺でも古くから建てられた寺院のひとつです。正平6年(1351)、乾峯士曇(かんぽうしどん)が開山で、当時この寺院は、開口神社の西門前にありました。  非常に大きな寺院で、塔頭も5院をもち、寺領300石であったと伝えられています。 今もこの旧地には金龍水(こんりゅうすい)と呼んでいる井戸が残っています。
当寺第5世と思われる季弘大叔(きこうだいしゅく)が文明16年(1484)から同18年にわたる「庶軒日録(しょけんにちろく)」という日記を残しており、遣明貿易で栄えつつあった当時の堺の姿がわかる
唯一の資料となっています。
その後、荒廃したので古渓宗陳が天正13年(1585)に、現在の祥雲寺の処に再興をしました。 大坂夏の陣(1615)で焼失したが、その復興には至らなかったので、南宗寺の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)の助力によって、南宗寺の寺域に再興されました。本堂庫裏及び門は重要文化財に指定されています。」(説明文より)
海会寺001  海会寺002
右:全景。山門の奥に見える門廊、左に見える庫裏および本堂が重要文化財。
左:「指月の庭」と呼ばれる、枯山水庭園。中央の大きな岩を仏様と見立てるそうな。
このお寺は、特別公開時しか中に入れないようです。


■布金山 大安寺(ふきんざん だいあんじ)■
「大安寺(だいあんじ)は、堺市堺区にある臨済宗東福寺派の仏教寺院。山号は布金山(ふきんさん)。本尊は釈迦如来坐像。
応永年間(1394年 – 1428年)に後小松天皇の命により、徳秀士蔭(とくしゅうしいん)が東福寺の末寺として開山したとされる。創建時は堺の町の中心に位置し、広さは二町四方、六つの塔頭を有していた。
1615年、大坂夏の陣により、寺は焼失。その後、慶安年間に、現在の南旅籠町の地に移転した。」(Wikipediaより)
大安寺001  大安寺002
左:山門。右:境内。本堂は、総檜造りの書院造の建物で、江戸時代初期(17世紀前半)に建てられた邸宅の部材を再利用し、1683年に間取りを変更して移築されました。本堂障壁画とともに、重要文化財。


■開口神社(あぐちじんじゃ)■
「開口神社(あぐちじんじゃ)は、堺市堺区にある神社である。地元では「大寺さん」とよばれている。式内社で、旧社格は府社。毎年9月中旬にかけて行われる「八朔祭」には、堺最古の歴史を持つふとん太鼓がかつぎだされる。
塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくたまのかみ)を祀る。塩土老翁神は住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神とされ、「住吉の奥の院」と呼ばれる。」(Wikipediaより)
開口神社001  開口神社002
左:こちらは東門になります。西門は商店街に面しています。
右:本殿。開口神社は鹽塩土老翁神・素盞鳴命・生國魂神を祀り、別名「三村明神」と呼ばれています。
開口神社003  開口神社004
これが今回特別公開された、茶室「無礙庵(むげあん)」。平成元年に復元されました。八窓庵とも呼ばれています。


■浄得寺(じょうとくじ)■
「浄得寺は天平年間(740年頃)、行基により建立されました。通称は海船御堂と呼ばれています。この海船御堂の名は、海船の浜(現在の北旅籠町西)にあったことからそのように呼ばれています。(新大和川が開削されるまで、海岸線は七道駅付近にありました。七道の海側にあたる三宝地区が陸地になったのは江戸時代中頃以降のことです。)この浄得寺は七堂伽藍を備えた寺で、かなり大きな敷地をもっていました。
南北朝の争乱の時期に焼失し、1431年(永享3年)本願寺第6世門主巧如の孫、了圓により真宗寺院となりました。1598年(慶長3年)に現在地に移転し、真宗大谷派(真宗本廟いわゆる東本願寺を本山とする)の寺院として存在しています。」(Wikipediaより)
浄得寺001  浄得寺002
左:山門、右:本堂。聖武天皇の勅願寺だそうです。寺自体が特別公開のようで、本堂、襖絵、駕籠、本堂欄間を見ることが出来ました。


■正中山 覚応寺(しょうちゅうざん かくおうじ)■
「覚如上人に帰依「覚応」と改名した伊予の豪族河野通元が建てた覚応坊が起源。住職河野鉄南は与謝野晶子と鉄幹をひきあわせた人で、境内に晶子の歌碑があり命日に白桜忌が開催されます。正中山(しょうちゅうざん)覚応寺といい、伊予の豪族河野通元が覚如上人に帰依し覚応と名乗り、日向の霧島山のふもとに一宇を建て覚応坊と名づけました。数代を経て堺に移り、第5世覚貞は蓮如上人に師事して、坊を改めて覚応寺とした後現在地に移りました。
当寺の住職河野鉄南は文学仲間の与謝野晶子と鉄幹をひきあわせた人で、境内に与謝野晶子の歌碑があり毎年5月29日の晶子の命日に白桜忌が開かれます。」(Web上の説明より)
覚応寺001  覚応寺002
左:寺の入口というよりは町家の入口というような・・・。看板なかったら見落としそう(^^ゞ
右:境内にある与謝野晶子の歌碑。


■本願寺堺別院(ほんがんじさかいべついん)■
「「北の御坊さん」として親しまれている西本願寺堺別院は、足利義氏(よしうじ/1189-1254)の四男・道祐(どうゆう)が、本願寺三世覚如に帰依して建立したのが始まりとされている。
文明8年(1476)、5世樫木屋道顕(かしきやどうけん)が本願寺八世蓬如を招き、その住居として現存している「信証院」を建てた。寛文3年(1663)には、十三世乗珍が寺地を西本願寺に寄進、以来別院となった。
現在の本堂は、文政8年(1825)に再建されたもので、堺市に現存する最大の木造建築とされる。廃藩置県に伴って明治4年から10年間(1871~1881)は、本堂と境内の土地が堺県庁として貸与され、堺別院は宿院町に移転していた。そのため、別院は「堺県庁跡」として大阪府指定史跡に。境内には堺出身の歌人・与謝野晶子の歌碑のほか、高さ20m、幹の周り3.65mもある銀杏の巨木が、この寺の歴史を語るかのように根をおろしている。」(Wikipediaより)
本願寺001  本願寺002
左:山門。境内は広く、さすがは本願寺といったところ。
右:現在の本堂は、文政8年(1825)の再建で、現存する堺最大の木造建築物です。圧倒されるほどの大きさですね。
本願寺003  本願寺004
左:経堂。江戸後期の建立。今回御開帳されていました。
右:狭山藩の大手門を移築した御成門。明治10年に、明治天皇がこの門から入られました。奥にあるのは太鼓楼。


■広普山 妙国寺(こうふざん みょうこくじ)■
「宝珠院の向かいに位置する妙国寺は、当時摂津・河内・和泉の三国を支配していた三好豊前守之康から寺地と蘇鉄(ソテツ)の寄進を受け、日蓮宗学僧の日こうが永禄5年(1562)に開山した寺。
大坂夏の陣で焼失した本堂は、寛永4年(1627)に復興されたが、堺の大空襲で再び灰燼に。また「堺市事件」で、フランス人水兵らを殺害した責任を負って土佐藩士11人が切腹した場所でもある。境内には、創建時に寄進された樹齢1000年を越す蘇鉄が、いまも生き続けている。高さ5m以上、大小120数本の幹枝を数える大木は、国の天然記念物。
かつて、織田信長がこの蘇鉄の見事さを気に入り、安土城へ移植させたところ、蘇鉄は毎夜「堺へかえろう、堺へかえろう」と泣いたという。それを聞いた信長は、激怒して幹を切りつけると、蘇鉄は血を流して苦しんだため、元の妙国寺へ返したという伝説がある。」
妙國寺001  妙國寺002
左:山門。なんだか、モダンな感じ・・・。
右:本堂。昭和48年に再考されました。
妙國寺003
蘇鉄のある枯山水の庭は、多分ここだけで見られる珍しいもの。天然記念物の蘇鉄は、ご神木であり、撮影禁止になっていました。
ちなみに堺事件の概要は、以下のとおり。遺品が展示されていました。
「慶応4年2月15日、フランス軍艦より水兵100人が上陸し、市内を闊歩し婦女子を追回すなど傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対したが、双方言葉が通じないため両者銃撃応酬の末、フランス兵13名の死傷者を出すにいたり国際問題となり、本事件はフランスに賠償金を払うと共に、箕浦猪之吉、西村左平次等土佐藩士20名は切腹を命じられた。同2月23日、妙國寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃しました。12人目にかかりフランスの立会検視人もその凄絶の様に見るに忍びがたく切腹は中止となり、9名は土佐へ流刑となったのです。」(Wikipediaより)


堺で、こんなイベントがあるとは思ってもみませんでした。今回は半分しか回れませんでしたので、次回、春の公開では、残りの寺社、町家、体験イベント等にも行ってみたいと思います。
もちろん、サイクリングサイクリングヤッホーヤッホーってな感じで(^.^)/