「一年の計はことひらにあり」金刀比羅ツアーその1

年末、JR各駅で貼られていた「一年の計はことひらにあり」のポスター。これは何かの啓示かもしれない。ここは行かねばなるまい・・・。
と、新年早々、初詣と讃岐うどん食いまくりを兼ねて、高松ツアーを敢行しました。
今回も青春18キップ、さらに泊まりはビジネスホテルで朝食付(朝から讃岐うどん)で6,000円。かなりコストを抑えたツアーにしてみました。
新快速に乗って相生駅で岡山行きの普通に乗り換えます。岡山駅で快速マリンライナーに乗り換え、瀬戸大橋を渡ってついに高松へ。
高松駅  サンポート高松
思ったより立派な、というより立派過ぎる気がする高松駅。駅前にはサンポート高松という複合施設もできていて、10年ほど前に訪れた時とがらっと雰囲気が変わってました。立派過ぎて溜息しか出ませんねぇ(^.^)
昼過ぎに着いたので、まずは腹ごしらえ。シンボルタワー内のレストランで石焼ごはんを食べて、お茶飲んでしばし休憩。
明日の金刀比羅登りに備えて、この日は近くの玉藻公園(高松城跡)を散策するだけにしました。時間的にも、あまり余裕がなかったしね。10年前に来たときは、さらっと流しただけで、高松城はゆっくり見てみたかったもんで、ちょうどよかったかも。
■高松城■
「讃州さぬきの高松さまの城が見えます波の上」と歌われていた高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていましたが、その由来は万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなんで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれています。
 天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐に封ぜられた生駒親正が数年の歳月を掛けてこの地に城を造りました。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は日本の三大水城の一つと呼ばれています。本丸を中心に時計回りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。
 生駒氏の治世は、4代54年間続きましたが、寛永17年に生駒騒動といわれる御家騒動で四代目城主高俊は、出羽(秋田県)由利郡矢島1万石の地に移されました。寛永19年に徳川家康の孫で水戸の徳川頼房の子、松平頼重(水戸光圀の兄)が東讃12万石を領してこの高松城に入り、明治2年の版籍奉還までその子孫が11代228年間在城しました。将軍家と近親の関係にあった頼重は、中国、四国の監査役を命じられていたといわれていました。
 明治4年の廃藩置県ののち、この城は兵部省の所管となり大阪鎮台の分営が置かれ、明治7年分営が丸亀に移り陸軍省があき城を管理していましたが、明治23年に旧藩主松平家に払い下げられました。その後、松平公益会所有となり、昭和29年に高松市が譲り受け、翌30年5月5日から玉藻公園として、一般に公開され、現在に至っています。
 当時は、三重五層の天守閣がそびえ、要所には約20の櫓があって、その威容を誇っていましたが、現在では、艮櫓、月見櫓、渡櫓および水手御門が重要文化財の指定を受け残っています。園内の庭園には、緑したたる老松、名木が立ち並ぶなかに、石燈寵、手水鉢、大飛石等が配置され、昔の大名の権威がしのばれます。
 また、彦根城主井伊大老の二女千代姫が十一代松平頼聴の奥方として輿入れしたゆかりにちなみ、昭和41年8月15日、彦根・高松の両城は姉妹城の縁組を結びました。
 本公園は、史跡高松城跡として市民に愛され親しまれており、年間を通じて多数の市民および観光客の入園があり、特に花見シーズンには桜の馬場の夜間無料開放を実施しています。(玉藻公園サイトより)
北入口  水門
左:駅からだとここから公園内に入ります。正月三ヶ日は無料開放されているみたいです。
右:高松城は堀と海がつながっているので、潮の干満による水位調節のための水門が設けられています。
月見櫓  渡櫓と水手御門
左:北の丸(北新曲輪)にある月見櫓。月見櫓は延宝4年(1676)二代頼常の時代に、完成されたものといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が船で帰られるのをこの櫓から望み見たので、「着見櫓」ともいわれています。
右:月見櫓に連なる水手御門と渡櫓。薬医門様式の水手御門は、いわば海の大手門といえます。
内苑御庭01  内苑御庭02
生駒親正が築城した当時は、このあたりには広大なお庭が広がっていたといわれます。現代の庭は、藩政時代の庭をもとに、披雲閣の債権にあわせて、大正6年(1971)頃、作造された枯山水式の庭です。
披雲閣01  披雲閣02
松平藩時代にも現在の場所に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現代の約2倍)があり、藩の政庁及び藩主の住居として使われていました。明治5年(1872)に老朽化により取り壊され、そののち、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて、大正6年(1917)現在の披雲閣が完成しました。再建披雲閣は現在高松市の所有となり公会堂として市民に開放されています。
内部公開は3時まででしたので、残念ながら見学することはできませんでした(ToT)
桜御門跡  桜の馬場
左:桜御門跡。三ノ丸の櫓門で昭和20年(1945)の高松空襲により焼失しました。石垣や礎石に焼けた跡が見られます。
右:本丸・三の丸の南を守る部分を「桜の馬場」といい、馬の教練をしたところで、かっては今の2倍ほどの広さがありました。今も桜の木が植えられており、春は花見の人で賑わいます。
艮櫓  旭門と旭橋
左:艮櫓です。艮櫓はもともと東之丸の北東の隅(月見櫓の東、現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、北東の方角を丑寅ということからこの名前があります。完成は延宝5年(1677)頃といわれ、月見櫓と同時期に建てられました。
右:旭橋と旭門です。かって、城の南側の桜の馬場の南中程(現在の南西隅)に大手門がありましたが、寛文11年(1671)頃、三ノ丸に藩主の住居である披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りするようになりました。
旭門を入ったところにある巨石を積み重ねてつくられた枡形は、攻め込んだ敵を包囲したり、攻め出す時に中に兵士を並べてその概数を知るためのものです。枡形の北側には埋門があり、南側には太鼓御門がありました。
鞘橋  天守閣跡
左:鞘橋と呼ばれる、本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋です。現在の鞘橋は天守が取り壊された(明治17年(1884)に架けられたものらしい。
右:天守閣跡。生駒氏の頃は、三層四階の天守でしたが、松平氏時代の寛永9年(1669)頃に三層五階に立て替えられ、瀬戸内海にその威容を誇っていました。明治17年(1884)老朽化により取り壊され、その跡に松平頼重を祭った玉藻廟が明治35年(1902)に建てられました。
現在は天守石垣解体修理工事が進められており、鞘橋から本丸にかけては立入禁止になっています。
規模は全盛期の8分の一になっていますが、それでもさすがは日本三大水城といわれるだけはあるかと思いましたね。天守再建計画が進んでいるようですが、もし、再建が成ったのなら、また訪れたいお城であります(^.^)
高松築港駅
お城観光も終わったので、城のすぐ側にある琴電の高松築港駅からことでんに乗って、河原町駅へ。商店街も近く、こちらのほうがメインの繁華街なんでしょうね。
ホテルにチェックインして、高松中央商店街を散策しに。アーケードの総延長は2.7Kmを超えるという、日本一の商店街。さぞかしにぎやかかと思いましたが、正月2日目だからなのか、休みの店も多く、不景気の影響で空き店舗も目立つなど、大きい商店街だけに余計に寂しく感じました。
華下天満宮01  華下天満宮02
商店街に面する路地の奥にひっそりとあった、 華下天満宮 ( はなしたてんまんぐう )という神社。
「高松市内で一番古い神社で、御神体が菅原道真公の自画像「華下神像」であることに由来する。北を向いているのが特徴で、菊池寛はこの天満宮の向きを尋ねて、高松出身であるかどうかを判断したといわれる。」とあり、見かけによらず格式の高い神社でした。
晩御飯にうどんを食べ、明日に備えて休むことにします。果たして、金刀比羅さんの階段を登りきることができるのだろうか・・・?
続きは後日。楽しみにしていてくださいね。