京都東山寺社巡り その1

2019年5月24日

一人で行く寺社巡り、嫁と娘が実家に帰っている今しかできないと思い夏休み最後の日に京都まで行ってきました(^.^)
久々に京阪電車に乗って七条駅で下車。今回は東山の寺社を巡ることにしました。

■三十三間堂■
「1164年(長寛2)鳥辺山麗(現、阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進しました。約80年後に焼失してしまうのですが、すぐに1266年(文永3)に再建されました。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されています。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120m。正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には1001体もの観音像が祀られています。また見落としがちですが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物です。」(WEB上の説明より)

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妙法院の一部で建物の正式名称は蓮華王院本堂といいます。国宝指定。

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左:南側にある築地塀は太閤塀と呼ばれ重要文化財に指定されています。方広寺大仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に含まれたためその工事に伴って築造されました。
右:南大門(重文)。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されています。

1001体の千手観音に圧倒されました。その余韻を残しつつ次のお寺へ。

■養源院■
「1594年(文禄3)淀殿が父浅井長政追善のため創建。のち焼失。1621年(元和7)徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移し再建。廊下の天井は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりのしみた板を使ったため「血天井」として有名。本堂の襖12面、杉戸8面の絵(重文)は俵屋宗達の作品。」(WEB上の説明より)
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左:山門。養源院の寺名は浅井長政の院号から採られたそうです。
右:本堂。 本堂は、元和5年(1619年)に破却された秀吉の伏見城の「中の御殿」を移築したものとされます。

生々しい血天井、俵屋宗達の見事な絵画を見た後、養源院の隣のお寺へ。

■法住寺■
「平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれた。法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたる。」(Wikipediaより)
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左:山門。本堂は2006年に再建されたばかり。本尊は不動明王です。
右:旧御陵旧門と石碑があります。

智積院へ行く前に見つけた神社に寄り道しました。

■新日吉神宮■
「東大路七条東入るにある新日吉神宮(いまひえじんぐう)です。新日吉神宮は、後白河法皇が法住寺殿を造営し、厄除けのため比叡山の日吉山王七社を勧請したのが始まりと言われています。色々な地を転々としながら明治30年(1897年)に現在の場所に移りました。
後白河法皇ほか、皇居守護神山王七柱を祭神として祀り、酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めています。」(WEB上の説明より)
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左:鳥居から山門を望む。     右:拝殿。中々立派(^.^)

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左:京都市指定保存樹に指定されている「スダジイ」。樹齢500年から800年だとか。
右:「元京都市午砲台座」とあります。午砲とは時間を知らしめる(時報)ため撃つ大砲(空砲)のことだそうです。

その1はここまで。すでに暑くてバテバテだったのですが、気合を入れ直してがんばったその2はまた後日にUPします\(^o^)/