愛媛観光 その5

2020年1月13日

愛媛観光、ついに最終回を迎えました。気が付けば年越してましたね(^^;) ということで、始めます!

 
左:旧東平第三変電所 「第三変電所は、第三通洞がある第三集落に明治37年(1904)9月に建設され、東平坑閉坑になる少し前の昭和40年(1965)まで、61年間使用されていました。」
右:旧東平第三変電所内 東平で当時のままの建物が残されているのは、この第三変電所と採鉱本部(現在はマイン工房)だけですが、内部までそのままで残されているのはここだけです。」 そんな貴重な建物ですが、どうみても廃墟です。当時のものがゴミを含めそのままのような気がします。2階にも上がれましたが、階段上るのすごく勇気がいりました(^^;)

 
左:旧東平貯鉱庫、選鉱場、索道基地 「貯鉱庫は銅山から運ばれてきた銅鉱石を麓に運ぶために一時的に保管するための倉庫です。貯鉱庫は上段の上貯鉱庫と下段の下貯鉱庫の二つから構成されていました。運ばれてきた銅鉱石は一旦、上貯鉱庫に保管され、上貯鉱庫と下貯鉱庫の間の選鉱場において、銅の含有率の度合いによって鉱石と岩石とに手作業で選別されました。」
手前に見えるのが索道基地の施設の一部。ここにリフトが停車する駅舎があったとか。城塞みたいに見える、これが「東洋のマチュピチュ」称される産業遺跡です。
右:上からのぞいてみる。貯鉱庫はすでに埋もれていますね。ここから鉱石を選別しながら下まで落としていきました。

 
左:貯鉱庫。扉のようなものから、鉱石が運び出されていたのでしょうか。
右:索道基地跡の煉瓦柱。何かを支えるための柱なのか、よくわかりませんでした。

 
左:東平歴史資料館前あたりから全体を撮ってみた。中央にある広場に選鉱場があったそうです。
右:インクライン跡 「端出場(はでば)から索道で東平へと運ばれてきた物資は、インクライン(傾斜面を走る軌道)を通じて荷揚げされていました。現在、インクラインはマイントピア別子東平ゾーンの園内遊歩道の一部、220段の長大階段に生まれ代わっています。」 ここを降りて貯鉱庫を正面から見える場所へ行きます。

 
左:社宅跡 「東平には、東平、一本松、唐谷(からたに)、柳谷、第三、喜三谷(きそうだに)、辷坂(すべりざか)、尾端(おばな)、呉木の9つの社宅がありました。東平社宅跡では、基礎のコンクリートを生かした骨組みが実物大に復元されていて、当時の間取りやかまど跡を見学できます。」 索道基地跡より一段降りたところにある社宅跡。長屋のような作りですね。

さぁ帰ろうとしたところ、道そばに看板を発見。

廃墟でもあるのかと思い、車を邪魔にならないところに停車して行ってみることにしました。

 
左:病院跡 「住友別子病院東平分院は当初東平出張所として明治38年(1905)11月1日に開設、昭和43年(1968)3月31日に廃止されました。」 今は当時の入り口にあった塀のみが残っています。
右:娯楽場跡 「東平娯楽場は明治45年(1912)に建設され、東平坑が閉坑される昭和43年(1968)までの57年間、東平の人々の憩いの場として親しまれました。
収容人数は2000人といわれ、定期的に映画や劇が上演されていました。}今は娯楽場手前にあった橋が残るのみです。

 
左:保育園跡 「保育園は、昭和25年(1950)に開設され、昭和43年(1968)までの18年間、幼児教育の中心の場として利用されました。」 今は門柱とコンクリート製の楕円の浴槽か池のようなものが残るのみです。
右:配給所跡 「東平生協は明治39年(1906)に配給所として開設され、閉山までの62年間、東平の台所として多くの人々に親しまれました。昭和33年(1958年)6月1日に、配給所から生協に名称が変更されました。」 看板も倒れていて、これがなかったらここがかつて配給所あったことがわからなかったと思います。

ここで、別子銅山を後にして帰路につきました。思うことは・・・整備がまだまだかなぁと。何となく最初に整備してそのまま10数年経ちましたという感じがすごくします。同じ鉱山の観光地と比べると、ここにしかないものもあるのでもうちょっと見せ方を考えたほうがいいかも。

東平よりさらに奥の旧別子エリアも行きたかったんですが時間がありませんでした。水力発電所が整備されて公開されたときに、改めて別子銅山に訪れたいと思います(^.^)