「一年の計はことひらにあり」金刀比羅ツアーその2
高松ツアー二日目。この日はツアー目的地である金刀比羅宮へお参り。奥社まで1368段の石段が待ち構えています。 小さい時に金刀比羅宮へ行ったときには途中で断念したことを覚えています。今回は果たして、最後までたどり着けるのだろうか?
ことでんに乗って終点の琴電琴平駅へ。約1時間くらいかかります。切符は前日のもの。駅員さんが改札してくれました。すんごく懐かしい感じ。琴平駅へは往復で20円安くなる1日フリー切符で行きました。
琴電琴平駅へ到着。駅舎は新しいけど、ホームは昔ながらというギャップが楽しい駅。右が駅の横にある高燈篭。高さ日本一の燈籠で6年の歳月をかけ、万延元年(1860)に完成しました。瀬戸内海を航海する船の指標として建てられたもので、高さ約27mの塔から放つ灯は、丸亀沖の船に届くように設計されたといわれているそうです。
駅からこんぴらさんへ参道をてくてくと。そのうちに名物の石段が始まります。両脇にはうどん屋やお土産屋さん、酒蔵などなどが連なり、バラエティーに富んでいて、しんどいけれど飽きないですね。史跡もかなりあるみたいで、参道だけでもボリュームいっぱいです。
左:金刀比羅宮の大門(365段目)までは、籠に乗って登ることができます。
右:石段を100段目になるころ、「一之坂鳥居」に至ります。その傍らにある備前焼できた重要有形民俗文化財「備前焼狛犬」。
左:大門前にある金刀比羅本教本部。こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教が設立されました。
右:本部向かいにある鼓鐘。いまでも朝夕時刻を知らせるているそうです。宝永7年(1710)に建立。
■金刀比羅宮■
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町に鎮座。一般に「讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)さん」とよばれる。大物主(おおものぬし)大神を主神とし、崇徳(すとく)天皇を合祀(ごうし)する。
創建年代不詳。1001年(長保3)一条(いちじょう)天皇は藤原実秋(さねあき)に勅し、社殿を修造したが、古くより神仏習合して象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現(だいごんげん)と称した。金毘羅とはサンスクリット語のクンピーラKumbhiraの漢訳語で、インドのガンジス川にすむ鰐(わに)を神格化した水神を意味し、これを本社の神と結び付け信仰したのである。
崇徳天皇は保元(ほうげん)の乱(1156)ののち当国に配流(はいる)されたとき、当社に参籠(さんろう)して祈願したこともあり、崩御後1165年(永万1)に合祀された。1243年(寛元1)後嵯峨(ごさが)天皇が勅命をもって祭儀を修して以後、朝野の厚い崇敬を受けた。
江戸時代には全国的な航路の発展とともに、航海者の信仰を集めて、全国に勧請(かんじょう)され、また金毘羅講が各地におこった。江戸幕府は朱印領330石を寄せ、代々の高松藩主もよく保護した。中世以来、別当職として金光(こんこう)院があたっていたが、1670年(寛文10)以降神職は山内より除き、僧侶(そうりょ)のみで支配した。
明治維新後、神仏分離して国幣中社。例祭10月9~11日の金刀比羅祭は「お頭人(とうにん)様」とよばれる大祭。1月、5月、9月の5~7日の本宮にての参籠大神事、4月10日の桜花祭など特殊神事が多い。琴平山(象頭山)一帯にわたる社殿は壮麗。円山応挙(まるやまおうきょ)筆『遊虎(ゆうこ)図』など多くの国の重要文化財がある。1952年(昭和27)宝物館、学芸参考館は博物館に指定された。蹴鞠(けまり)は県無形民俗文化財。 (Yahoo!百科事典より)
左:こんぴらさんの入り口でもある大門。慶安2年(1649)、水戸光国の兄である高松藩初代藩主松平頼重から寄進されました。
右:大門から150メートル程続く石畳の道は、桜馬場と呼ばれます。春は桜がきれいだそうですが、冬なのでその面影はまったくありません(^^ゞ
左:明治38年(1905年)に建てられた宝物館が奥にあります。
右:桜馬場西詰銅鳥居前の広場にある御厩。神様がお乗りになるための馬「神馬」が飼われています。
左:今治造船が奉納した巨大プロペラ。真鍮(しんちゅう)製で直径6メートル、重さは19.2トンもあるそうな。しかし、よく運んできたな・・・。
右:桜馬場西詰銅鳥居をくぐって先へ進みます。この鳥居は高燈篭東側にあったものを、大正元年(1(1912)に力士の12代目朝日山四郎右衛門が現在の場所に移設して修復しました。
左:書院の前にある門は勝手口なのですが、社務所が書院に付属していた頃の名残で社務所門と呼ばれています0。
右:書院(表書院)。
「表書院は、入母屋造、檜皮葺で、萬治年間(1658-1660)の建築と伝えられています。金毘羅大権現に奉仕する別当金光院が、諸儀式や参拝に訪れた人々との応接の場として用いた客殿でした。建物は、内部の五間に描かれた円山応挙による障壁画とともに、重要文化財に指定されています。円山応挙の障壁画はすべて、応挙晩年にあたる天明から寛政年間にかけての秀作であり、三井家から資金援助を得て京都で制作したといわれています。また、明治の歴史画家邨田丹陵も二間の障壁画を担当しています。(金刀比羅宮サイトより)」
拝観料500円で表書院だけですが内部を見ることができます。円山応挙の障壁画は一見の価値はあると思います。
表書院前庭と書院池泉鑑賞式庭園 「林泉」。前庭では毎年5月5日と7月7日に書院前庭にて蹴鞠が行われているそうです。
左:新しくできたレストラン「神椿」の側には、木馬舎があります。慶安3年(1650)、高松城主松平讃岐守重から献納されました。木馬は京師田中環中斎弘教宗圓の作です。
右:祓戸社の東側に祓戸社前銅馬があります。○金の字がかなり浮いていると思うのはわたしだけでしょうか・・・?(^.^)
左:祓戸社。祓戸社の御祭神は、織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神で罪穢を祓い清める神様です。ここでお祓いをして本宮にあがるということらしい。
右:火雷社。火産靈神・奥津比古神・奥津比賣神に座して、八衢比古神・八衢比賣神・來名戸神が合祀されています。鎮火・消防の神、疫病を防ぎ止める神といわれています。
左:石段を上がると立派な建物がありますが、これは本宮ではなく旭社といい、参拝路も最後なので後でお参りします。その旭社に面して長長さ32メートルほどの廻廊があります。嘉永7年(1854)に建てられ、明治34年(1901)に改築されました。現在はいい休憩場所になっています。
右:黄銅鳥居をくぐってさらに先へ。この鳥居は、慶応3年(1867)に伊豫松山松齢講より献納されました。ちなみにここまでで、石段は628段。
左:賢木門(さかきもん)。長曽我部元親がこの門を献上したとき、急いで建てたために柱を一本逆さまに取り付けてしまったことから、「逆木門」と言われるようになったとか。明治12年(1879)の改築の際に、「逆」の字を嫌い「賢木門」と書くようになりました。
右:遙拝(ようはい)所といって、皇廟(伊勢の神宮)や皇陵を遙拝する所です。遙拝とは「遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむこと」という意味だそうです。
左:遙拝所を経て数十歩の間を闇峠というそうです。確かに木々に囲まれて、なんだか暗い感じがしますね。鳥居の向こうに見えるのは本宮手水舎。
右:真須賀神社。御祭神は、建速須佐之男尊・奇稲田姫尊です。八俣大蛇退治の天叢雲剣の神話に登場する神様で、勇武絶倫の神様といわれます。本宮御祭神である大物主神の御祖神に当たります。
本宮前にある御前四段坂の途中にある御年神社(左)と事知神社(右)
御年神社の御祭神は、大年神・御年神・若年神です。大年神は素盞鳴尊の御子、御年神は大年神の御子、若年神は御年神の御弟神の御子です。農作穀物を司る神。
事知神社の御祭神は、積羽八重事代主神・味■高彦根神(■は金に且)・加夜鳴海神です。商売繁盛の神である夷様として広く信仰される神様です。この三柱の大神は本宮御祭神である大物主神の御子神に当たります。
右:本宮前の石段で御前四段坂と呼ばれます。ここを上りきれば御本宮なので、785段の石段を登りきったことになります。
左:元気なうちに奥社へ。本宮からみて右手に奥社へ続く道があります。あと583段。行った人の話によると、ここからの道のほうがきついらしい・・・・。
金刀比羅宮の紹介も、やっとここで半分。かつてないほどのボリュームでお送りしております(^.^) 続きは後日。次回も同じくらいのボリュームかと思われます(^^ゞ
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