青春18きっぷin広島ツアー その3

翌朝、ホテルのバイキングで朝食をとり、ゆっくりしてからいざ出発。
広電
広電乗って、紙屋町東駅で降ります。この手の路面電車の新しい車両はみんな近未来的。岡山もそうだったと思います。路面電車ですからもうちょっとノスタルジックな外装でもいいんじゃないかなぁと感じるのはわたしだけでしょうかね? なんとなく味気ない気がするんですよ。
午前中は広島城を散策します。駅から10分くらい。これくらいの距離なら暑くても楽勝です。
■広島城■
広島城は、豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元が築いた典型的な平城です。江戸時代には、福島氏、次いで浅野氏が居城していました。築城以来の天守閣は昭和6(1931)年に国宝に指定されましたが原爆によって倒壊し、昭和33(1958)年に外観復元されました。平成元(1989)年には築城400年を機に内部改装を行ない、現在は武家文化をテーマとした歴史資料館となっています。(web上の説明文より)
広島城・二の丸御門橋と表御門 広島城・二の丸平櫓
左:二の丸御門橋と表御門。
右:二の丸平櫓。平櫓と太鼓櫓の間は多門櫓。
広島城・表御門(内側) 広島城・太鼓櫓
左:表御門を二の丸側から見たところ。
右:太鼓櫓。2階に上がることはできませんが、1階に太鼓がおいてありました。もちろん、叩きましたよ(^.^)
二の丸の建物は江戸時代の旧態に戻すため、すべて木造で推定復元されています。
広島城・中御門跡枡形 護国神社
左:中御門跡枡形を通って本丸へ。
右:本丸内にある広島護国神社。(明治元年の戊辰戦争で戦没した浅野藩士をまつることで、水草霊社が建立されたのが始まり。その後原爆で焼失し昭和31年現在の広島城跡に再建されるた。昭和46年昭和天皇の御参拝を契機に年々参拝者が増加し初詣は50万人を数える。(web上の説明より))
場内にも原爆関連のものがありました。
広島城・地下通信室 広島城・大本営跡
左:旧・中国軍管区地下通信室跡です。
(広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の作戦指令室、通信室が設けられていた。この通信室では、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女生徒たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。  (説明版より))
右:大本営跡です。
(広島大本営(ひろしまだいほんえい)は1894年に勃発した日清戦争の戦争指揮にために広島県広島市の広島城内に設置された、最高統帥機関である大本営である。
その後文化財として保護され、「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として1926年に国の史跡に指定されたが、1945年8月6日に原爆投下により一瞬にして建物が崩壊し、現在では建物の基礎および礎石と一部文字が消された碑石が残っているのみとなっている。(Wikipediaより))
広島城・天守閣 広島城・天守礎石
左:現在の大天守は1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が開催された際、鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元されました。内部は博物館になってます。
右:天守礎石です。(ここにすえ付けてある石は昭和三十三年天守閣再建に際して、もと、天守閣柱下の礎石を掘りおこして原型のまま移したものである。玉石排水溝の内側が天守台の大きさである。一段低くすえてある石は今もなお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している。(説明版より))
天守閣内は、冷房がほとんど効いてなく(入り口で団扇配ってたから、もしかしたらと思いましたけど)要所要所で扇風機が回っていましたが、かなり暑かったです。これではゆっくり展示物を見ようという気も起こらないかもしれませんね・・・。
それにしても、原爆さえなければこのお城も天守閣や櫓類を残した壮大な城郭を見ることこができただろうに・・・。すごく残念です。
午前中はこれで終了。炎天下で歩き回るのは体力的にもきついので、お昼にしてゆっくりお茶して昼からに備えます。
今日はここまで。その4へ続きます(^_^)/