備中高梁で歴史を巡る旅 その1

岡山県高梁市。ピンと来ない人もいるかと思いますが、場所は岡山県の中西部に位置し、広島県と境を接ところにあります。
江戸時代、現在の市域内に備中松山藩と成羽藩が置かれ、高梁市は城下町として栄えました。そのこともあり、現在でも、備中松山城をはじめ文化的遺産、町並みが多数保存され、寺も多く、備中の小京都とも言われています。
なんと観光しがいのあるところなのでしょう。とくに、備中松山城は昔から行ってみたかったところ。この連休を利用して、1泊2日の旅行に出かけることにしました。
今回は、リッチに新幹線のひかりを使って、一気に岡山駅へ。渋滞知らずでイライラせずに済むんであれば、コストが高くても許せますな(^^ゞ
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左:岡山駅で伯備線に乗り換えます。普通電車で1時間ばかり揺られます。
右:備中高梁駅へ到着。新大阪を8時半に出発し11時前には現地着でした。
予約しておいた乗合タクシーへ乗って、備中高梁城へ向かいます。同乗した岐阜県にお住まい(多分)の不破さん、このブログ見てますか?(^.^)
■備中松山城■
「鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に任じられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まりました。
その後、小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化しますが、中でも天正二年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録と残っており、臥牛山全域が一大要塞しなっていたことがうかがえます。
当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割をになっていたようです。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新をむかえますが、現存する天守などは天和三年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられている。」(Wikipediaより)
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左:タクシーはふいご峠広場駐車場までしかいけません。ここからは20分ほど歩いて登城することになります。
右:このような道を歩いていきます。結構きついかも、真夏に歩くと確実に死にそうです(^.^)
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左:石垣が見えると城に着いたと実感できます。ここは大手門跡。石垣の上に太鼓櫓等があったそうです。
右:本丸南面の建物群と復元土塀。左から、六の平櫓・五の平櫓・天守閣です 。平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されました。
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左:現存する12か所の天守の内では最も小規模ですが、12か所の内では最も高所にあります。小さいながらも凝った造り。
右:天守内部。籠城戦に備えて囲炉裏がある天守は全国でも珍しいそうです。
自然を利用した高石垣は実にすばらしい。交通の便が良くないけれど、ここは城好きにはたまらないところでしょう。わたしもちょっと興奮しました(^.^)
行きと同じく、ふいご峠まで降りてから乗合タクシーで駅まで戻ります。駅前の食堂で腹ごしらえをし、町を散策することにします。
まず、訪れたのは薬師院というお寺。
■瑠璃山 薬師院(るりさん やくしいん)■
「寛和年間(985~987)花山法皇の開基といわれる。
真言宗に属し、本尊は薬師瑠璃光王如来で、50年毎に秘仏御開帳法要がある。本堂の薬師堂は、元名10年(1615)の建築。
勾配のきつい大屋根とこれを支える組物、浅唐戸の彫刻、ほか随所に桃山風の特徴がよく表れている。山門右にある大仙堂の石造延命地蔵(市指定重要文化財)は鎌倉期の作風を感じさせるもの裏山には西国三十三観音霊場があり、参拝者がたえない。また、境内には高梁の殖産興業に貢献し、麦かん真田を広めた中村源蔵の碑もある。
昭和58年に「男はつらいよ」のロケが行われたことで、特に有名になった。」(WEB上の説明より)
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左:山門。石垣の上にあり、まるで小さな城砦のよう。
右:破風が美しい裡庫玄関と客殿。
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左:本堂。本尊は薬師瑠璃光王如来です。
右:寺務所では、寅さん関係のロケ写真がおいてあります。寺務所内の庭を見つめる可愛い子供(^.^)
備中の小京都と言われるだけあって、お寺の多いこと多いこと。お寺見るだけでも、半日以上は費やしそうですので、ちゃんとした観光は次回に回すことにしました。
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左:寿覚院。浄土宗知恩院の末寺で本尊は阿弥陀如来。ここも寅さんのロケ地になったそうな。
右:巨福寺(こうふくじ)。寺は日蓮宗。総本山は身延山久遠寺の末寺。本尊は日蓮聖人婁定の十界互具大曼茶羅。
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左:道源寺。境内に藩老熊田恰矩芳の墓所があります。
右:龍徳院(りゅうとくいん)。曹洞宗洞松寺(小田郡矢掛町)の末寺で、本尊は釈迦如来。
それらのお寺を表から見ながら次なる目的地、頼久寺へ。この寺には名匠・小堀遠州が築庭した庭園があります。それを見たくてやってきました。
■天柱山 頼久寺(てんちゅうざん らいきゅうじ)■
「岡山県高梁市頼久寺町にある臨済宗永源寺派の寺。詳しくは天柱山安国頼久寺と号する。本尊は聖観世音菩薩。暦応年間(1338~42)足利尊氏が日本六十六国に安国寺を建立したとき、天台宗天忠寺の廃址に天柱山安国寺を建てたのが始まりで、近江(滋賀県)の永源寺を創建した寂室元光(を開山とする。その後衰退したのを、1504年(永正1)備中松山城主上野頼久が再興し、その子守頼が父の名を加えて安国頼久寺と改称した。小堀遠州作の庭園は国指定名勝。寺宝には絹本着色釈迦三尊像(国重要文化財)などがある。 」(Yahoo!百科事典より)
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右:これも城砦のようなお寺です。実は、城を勝手に増改築できないので代わりに城砦のような寺を麓に建てたとか。
左:境内。頼久寺本堂。写真奥が本尊は聖観世音菩薩だそうです。
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左:国指定名勝の庭園は、備中国奉行・小堀遠州の初期の作庭で(1605年頃)、禅院式枯山水蓬莱(ぜんいんしきかれさんすいほうらい)庭園です。俗に「鶴亀の庭」と呼ばれる天下の名園で、はるかに望む愛宕山を借景に、砂の波紋で海洋の感じを出し、中鶴亀二島の蓬莱石組、鶴島の三尊石組を配し、さらに、大海の波のあらわすサツキの大刈込みで背景を整えています。この豪華な大刈込みは、遠州独特のものです。(WEB上の説明より)
右:左端が境内には寺号となった中興の開基・備中松山城城主上野頼久の墓。その隣が、三村家親、元親の墓。戦国時代に備中をほぼ支配していた三村氏は備中大乱にて毛利氏の追討を受けて滅亡しました。
本日はここまで。次回は初日の残りをUPしますので、お楽しみに(^.^)/