兵庫 西国・新西国 寺巡り
先日の9連休の最後を飾ったのが、地元のお寺巡り。寺に始まり寺に終わる9連休。いyぁ、なんて充実してるんだ(^.^)
今回も車で。バスを使う寺巡りは京都でもない限り、効率が悪すぎるのでね。一日数本のバスでは何ヶ所も回るなってとても無理だし。
まず訪れたのが、西国の札所。播州清水寺。昔、10年位前仕事中に寄ったことがあるという記憶があるだけのお寺。
■御嶽山 清水寺(みたけさん きよみずでら)■
清水寺(きよみずでら)は兵庫県加東市(旧加東郡社町)にある天台宗の寺院。山号は御嶽山。本尊は十一面観世音菩薩で秘仏となっている。
西国三十三箇所第25番札所。同じ西国三十三箇所の第16番札所である京都市の音羽山清水寺と区別するため播州清水寺とも呼ばれる。
明治末及び大正2年(1913年)の火災で全山焼失したことにより、現存の建物の殆どは大正から昭和にかけて再建されたもののようである。
寺伝では1,800年前(古墳時代)、天竺( インド)僧の法道が創建したとされ、 推古天皇35年(627年) 推古天皇が根本中堂を建立、 神亀2年(725年) 聖武天皇が行基に命じて講堂を建立したという。
朝鮮半島から日本へ仏教が伝来したのは6世紀のことであり、「1,800年前に法道が創建」との伝承が後世の付託であることは言うまでもない。法道は天竺から紫の雲に乗って日本へ渡来したとされる伝説上の人物である。法道開基を伝える寺院は兵庫県南部に集中していることから、「天竺から紫の雲に乗って」云々はともかくとして、そのモデルとなる仏教者がこの地に存在したことは想定される。(Wikipediaより)
右:拝観料を兼ねた有料道路を上がってくると朱塗りの華麗な仁王門が迎えてくれます。この仁王門は台風で倒壊し1980年に再建されました。
左:大講堂は大正6年(1917年)の再建。安置されている本尊は十一面千手観世音菩薩です。
左:大講堂の東側横の石段を上がると「根本中堂」があります。本尊、十一面観世音菩薩は法道仙人が刻んだ一刀三礼の仏像とされ、秘仏だそうです。
右:裏手にある「おかげの井戸」。「おかげの井戸」を覗き込んで自分の顔を写したら寿命が三年延びるという言い伝えがあるらしい。覗き込んでみましたが・・・これで延びたんだろうか?
ここも紅葉の名所なので、シーズンを外して、平日の真昼間に来ると人があまりいません。おかげで、ゆったりまったり見ることが出来ました(^.^)
次に行くのは新西国の札所、光明寺。その途中で前々から仕事で前を通って気になってた、神社に寄ってみました。
三間社流造り、檜皮葺きの本殿は国の重要文化財。毎年10月4・5日に奉納される神事舞は鎌倉時代の田楽に起源を持ち、国の重要無形民俗文化財に指定されている。(Wikipediaより)
まさか、こんなに由緒ある神社だとは思いませんでした。もちろん、人っ子一人いなくて、ひっそりとしていてました。その分、神秘性が高まっているような気がしました。
神社を後にして、お昼を食べて、光明寺へ到着。
■五峰山 光明寺(ごぶさん こうみょうじ)■
光明寺(こうみょうじ)は兵庫県加東市にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は五峯山(ごぶさん)、本尊は千手観音。「播磨高野」とも呼ばれる真言宗七十五名刹の一つである。開基(創立者)は法道とされる。観応の擾乱の光明寺合戦の舞台として知られる。
新緑と紅葉の名所で「ひょうご森林浴場50選」に選定される連山(宿尾・明星が辻・経の尾・大岩・弥木場)である五峯山の主峰頂上近くに本堂がある。光明寺合戦にまつわる史跡は本堂裏の本陣跡のほか、山内に数多く残る。
594年、法道による開基と伝わる。法道は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。法道開基との伝承は文字通りに受け取ることはできないが、法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。
寺伝では平安時代初期に円仁(慈覚大師)が山内に留まったと言い、仁明天皇の勅願により常行堂が建立されたという。
1351年には山内で足利尊氏・高師直の軍と、足利直義・石塔頼房・愛曽伊勢守の軍の合戦(光明寺合戦)があった。(Wikipediaより)
左:駐車場から坂道が延びていまして、これが参道になっています。道の脇に塔頭四ヶ院があります。
右:光明寺の仁王門。仁王門はもともとは山麓にあったといわれており、元禄6年(1693年)に現在の場所に移転、再建されたそうです。
左:本堂。現存の本堂は大正14年(1925年)に鎌倉時代の建築様式をもって再建されたものらしいです。本尊は十一面千手観世音菩薩。
右:本堂奥にある「光明池合戦本陣跡」です。
観応の擾乱において、1351年に、山内で足利尊氏・高師直の軍と、足利直義・石塔頼房・愛曽伊勢守の軍の合戦(光明寺合戦)があり、ここに本陣が置かれました。
左:光明寺は塔頭四院で管理しているみたいで、納経も持ち回りでやっています。今年はこの大慈院で納経してもらえます。
右:本堂裏の山の斜面にある、「閼伽井の水」。ここの井戸はすでに枯れていますが、光明寺入り口にある地蔵堂付近から清水が湧き出し、現在は手洗いの水として使われています。
光明寺の次は、今日最後の目的地、こちらも新西国の札所、酒見寺へ。
■泉生山 酒見寺(せんしょうざん さがみじ)■
酒見寺(さがみじ、さがみでら)は兵庫県加西市にある高野山真言宗の仏教寺院。聖武天皇の勅願寺。山号は泉生山(せんしょうざん)、本尊は十一面観世音菩薩、開基は行基とされる。
天平17年(745年)、酒見明神(住吉神社)の神託を受けた行基が聖武天皇に奏上し、寺号を酒見寺として開創したと伝わる。
平安時代から毎年勅使の参詣が行われていた名刹は、2度全山を焼失している。平治の乱での全山焼失(1159年)の際は二條院の勅により再建、天正年間(1573~92年)にも兵火で全山が焼失した。
その後、江戸時代に入り、姫路城主となった池田輝政が姫路城の守護寺に定めて援助を行い、池田家の転封後は本多忠政の援助を受け、寛永年間(1624~43年)に幕府の命を受けた実相院降恵が再興した。さらに江戸幕府3代将軍徳川家光が朱印寺と定め、代々将軍から朱印状を下附されて隆盛するなど、これまで天皇や幕府、藩により厚く保護されてきた。(Wikipediaより)
左:街中にどーんとある仁王門(楼門)。江戸時代の文政8年(1825年)再建されました。ちなみに、駐車場がどこにあるかわからず、隣接する住吉神社の境内に止めさせていただきましたが・・・よかったのかな?
右:境内。仁王門をくぐると正面に本堂(根本堂)。参道の両側には弘法大師入定千五百年を記念して建てられたという二十一対の飾り灯篭が立ち並んでいます。本堂は元禄2年(1689年)の再建だそうです。本尊の十一面観世音菩薩。手前の大きな建物は、引聲堂といい、阿弥陀如来が祀られています。
左:多宝塔は国の重要文化財で、寛文2年(1662年)再建。昭和51年~53年にかけて解体修理が行われれ、建立当時の極彩色が再現されました。
右:鐘楼。兵庫県指定文化財で、寛文4年(1664年)再建。平成17年に解体修理が完了し、こちらも極彩色に塗られています。
この建物がすっごく派手で、目を引きます。昔はすべての建物がこのような極彩色に彩られていたのでしょうか・・・? そういえば、平等院の復元CGもこんなんだったような・・・。
前述しましたが、住吉神社が隣接しています。
左:「住吉神社(すみよしじんじゃ)は兵庫県加西市にある神社。住吉酒見社、住吉酒見神社とも。祭神は酒見神・底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后。播磨国三の宮、旧社格は県社。黒駒村で創建され、養老元年(717年)に現在地に遷し奉られた。大阪の住吉大社らに伝わる「住吉大社神代記」〔天平3年(731年)〕に記された住吉大神の宮九箇処の一社である。 古くは酒見大明神と呼ばれており、明治時代に県社に列格された際に現在の神社名に改められた。
社殿は平治の乱〔平治元年(1159年)〕や天正年間(1573年 – 1592年)の兵火など幾度もの焼失と再建を経て荒廃していたところ、江戸時代初期に姫路城主の池田輝政により復興された。 現在の本社三殿(国の登録有形文化財)は嘉永4年(1851年)に再建されたものである。 境内中央には勅使塚が遺されており、現在は「鶏合わせ」や「龍王舞」など神事の場として使われる。」(Wikipediaより)
右:隣接というより、中央をはさんで、同じ境内にあるように見えます。手前に本殿、奥に酒見寺の本堂。
右:重量感のある拝殿。 拝殿前にあるのが勅使塚で、現在は「鶏合わせ」や「龍王舞」など神事の場として使われています。
左::中本殿、東本殿、西本殿の本社三殿。嘉永4年(1851年)に再建されたもので、拝殿、幣殿含めて国の登録有形文化財。
寺巡りで、ついでに神社も見れて、この日も一日楽しく過ごせました。こんなにお寺や神社に行ってますが、どこも特徴があって全然飽きませんねぇ。
次は、どこのお寺に行こうか・・・。その前に、早く、お寺巡りのHPを完成させたいんですけどね。いっぱい撮った写真達にいつか日の目を見せてあげたいですからね(^.^)
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