湖東・寺社巡り その2(湖東三山)
湖東・寺社巡り その2は、湖東三山オンリー。
湖東三山とは、西明寺、金剛輪寺、百済寺の三つの天台宗寺院の総称です。琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置し、永源寺と共に紅葉の名所として知られています。
まずは、百済寺から、いってみましょう(^.^)
■釈迦山 百済寺(しゃかさん ひゃくさいじ)■
「百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈(えじ)とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。
平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。」(Wikipediaより)
左:参道の入口ある山門。朱塗りのために通称赤門と呼ばれています。本堂と同じ慶安3年(1650)に建立。車で参拝だと、参道をほとんど通ることなくお寺に入ることができます。
右:寺内に残っている石垣跡。百済寺は敏満寺と共に城砦化された寺院だそうで、そういわれれば、寺にしては立派過ぎる石垣が目に付きます。
百済寺庭園。壮大な池泉回遊・鑑賞式庭園で『天下遠望の名園』と呼ばれています。
左:本堂近くに立つ仁王門は、本堂と同じ年代に建立。正面につり下げられた一対の大草鞋に触れると、身体健康・無病長寿のご利益があるとか。
右:本堂。慶安3年(1650年)の再興で重要文化財に指定されています。
百済寺の次は、金剛輪寺へ。
■松峯山 金剛輪寺(しょうほうざん こんごうりんじ)■
「金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡(えちぐん)愛荘町にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。地名から松尾寺ともいう。本尊は聖観音、開基(創立者)は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、奈良時代の僧・行基の開創と伝える。行基は河内国家原(現・大阪府堺市)の出身で、出身地の河内を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる。行基の開創を伝える寺院は現在の大阪府や奈良県を中心に各地に多いが、当寺もその1つである。行基がこの地に一寺を建立したのは、文献によって天平9年(737年)とも言い、あるいは天平13年(741年)とも伝える。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848-851年)には天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。行基の創建伝承についてはどこまで史実を伝えるものか定かでないが、当初は観音を祀る小堂であったものが、平安時代に入って近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台寺院として発展したものと思われる。また、金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があるとみられている。
平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残り、現存する本堂は、弘安11年(1288年)、近江守護佐々木頼綱の寄進を得て建てられたもので、この頃の金剛輪寺はかなりの規模をもっていたと思われる。天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。」(Wikipediaより)
左:黒門と呼ばれる寺の入口に当たる門。
右:金剛輪寺の本坊、明寿院には桃山時代から江戸時代にかけて整備された池泉回遊式庭園があります。
左:見事な庭園。手入れが行き届いています。
右:護摩堂(正徳元年・1711年建:左手奥)と茶室水雲閣(安政年間・1854-1860年:右手前)があります。
右:本堂へ行くまでの参道には、びっしりとお地蔵様が並んでいます。
左:二天門。室町時代末期の建築。元来は楼門(2階建て門)だったが、近世に2階部分が取り払われました。重要文化財。
左:本堂。弘安11年(1288)1月建立の銘が須弥壇にあり鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されています。本尊聖観音、阿弥陀如来など十体の仏像(重要文化財)が安置。
右:三重塔。南北朝時代~室町時代の建築とみられ、重要文化財に指定。紅葉が邪魔で全体を撮ることはできませんでした・・・・(^^ゞ
湖東三山の最期は、西明寺。
■龍応山 西明寺(りゅうおうざん さいみょうじ)■
「西明寺(さいみょうじ)は滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の仏教寺院。山号を龍応山(りゅうおうざん)と称する。本尊は薬師如来、開基は三修上人である。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる。西国薬師四十九霊場第三十二番札所。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば承和元年(834年)、三修上人の創建という。三修上人は、修験道の霊山として知られる伊吹山(滋賀・岐阜の県境にある)の開山上人と伝えられる半ば伝説化した行者である。伝承には、承和元年のある日、琵琶湖の西岸にいた三修上人は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思った。そこで神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。三修上人がその池に祈念すると、薬師如来の像が出現し、その姿を刻んで祀ったのが寺のはじまりであるという。寺のある場所の地名を「池寺」というのは、この伝説に基づいている。承和3年(836年)には仁明天皇の勅願寺となり、寺領が寄進され、諸堂が建築されたという。「西明寺」の寺号は前述の紫の光が西の方へさしていたことによる。
近江(滋賀県)地方の他の多くの古寺と同様、西明寺も平安時代から中世へかけての歴史は必ずしも明らかではなく、上述の開創伝承もどこまで史実を反映したものかは定かでない。しかし、現存する本堂、三重塔は鎌倉時代の本格的な建築であり、この頃にはかなりの規模を有していたものと思われる。
元亀2年(1571年)、比叡山延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も信長配下の武士によって焼き討ちの運命にあった。しかし、寺僧の機知により、山門近くの房舎を激しく燃やし、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたという。この兵火の後は荒廃していたが、徳川家などの庇護を受けて徐々に復興し、近代に至っている。」(Wikipediaより)
左:まず庭園から。池泉観賞式の庭園で、鶴亀の「蓬莱庭」と名付けられています。残念ながら工事中のため、奥に入ることはできませんでした。
右:二天門。応永14 年(1407年)の墨書があり、その頃の建築と思われる。重要文化財。ちなみに二天とは、持国夫と増長天のこと。
左:本堂は国宝。鎌倉時代前期の和様建築。本尊薬師如来立像(重要文化財)は秘仏で住職ですら見ることが出来るかどうかだそうです。今年は寅年ということもあって、お前立ちが12年に一度のご開帳されていました。
右:三重塔。様式的に鎌倉時代中期~後期の建築とされ、こらも国宝に指定されています。
どのお寺も、入山料が500円かかります。入山料としては妥当かなと思いますが、庭園が工事中でほとんど見ることが出来なかった西明寺だけは、ちょっと金返せと思いました(^^ゞ
紅葉の名所なので、シーズンでもないし、平日ということもあって、どの寺社もほとんど参拝客がいませんでした。おかげでゆっくりまったり見ることが出来てよかったですけどね。
紅葉の頃に来たいけど・・・たぶん、えらいことになってるんでしょうなぁ・・・(^^ゞ
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません