名古屋観光 その1

5月3日~4日と名古屋へ1泊旅行へ友人と行ってきました。初日は午前中いっぱいかけて近鉄に乗って名古屋へ。昼食の後、尾張名古屋は城で持つで有名な名古屋城へ行くことにしました。
実は城好きなわたしにとって名古屋行きは願ってもないこと。ウキウキしながら名古屋城へ。
■名古屋城とは■
名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂(現大阪)方への備えとして、清須(現清洲町)から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、天守閣や諸櫓の作事(建築工事)は、慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。
その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月、名古屋空襲の際、大・小天守閣、本丸御殿はじめ建物のほとんどを焼失しましたが、幸いにも焼失をまぬがれた三つの櫓(西北・西南・東南)、三つの門(表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門)と本丸御殿障壁画の大部分は、重要文化財として現在に伝えられています。(パンフレットより)
 
左は駅から一番近い城の入り口、二の丸東門跡です。
右は二の丸庭園内にある、「那古野城址碑」です。那古野城は名古屋城の前身で、築城の際に二の丸の一部として取り込まれ消滅しました。
 
左が「清正公石曳きの像」です。慶長15年(1610)加藤清正が徳川家康に願い出て大小の天守閣の石垣工事を施工しました。 清正は巨石を修羅に乗せて運ぶとき、石の上に乗り気勢を上げたと伝えられ、世に「清正の石曳き」といわれています。
右は「本丸東南隅櫓」です。二層三階の櫓で巽櫓とも呼ばれています。
 
左が本丸へ至る門で「表二の門」です。右が言うまでもなく大天守と小天守です。現在の大・小天守は昭和34年に外観復元(五層七階、当時は五層五階の層塔型連結式)されたもので、尾張名古屋のシンボルである金鯱も載せられています。手前に見える整然と並んだ石は、戦災で焼失した本丸御殿の礎石。
 
左が小天守です。大天守や場内の櫓と比べても地味な感じがするのはわたしだけでしょうか?
右が、小天守から仰ぎ見た大天守です。大天守へは、小天守の下をくぐって入る様になっており、連結天守が一つの曲輪となっています。
 
左が「不明御門」で、多聞塀の下をくぐる埋門です。本丸御殿へ通ずる門であり、常に鍵が厳重に施されているところから、別名を「あかずの門」と言いました。
右が「正門」です。明治43年に江戸城蓮池御門を移築して戦前まで残っていいましたが、戦災で焼失しました。現在は、鉄筋コンクリートで外観復元されています。
 
左は御深井丸から見た大天守です。あらためて天守の大きさ、石垣の美しさが分かりますね。
右は「本丸西南隅櫓」です。二層三階の櫓で未申櫓とも呼ばれています。櫓に石垣に天守という、誰もがこの角度で写真撮るんじゃないこという構図になってますね(^.^)
さすがは日本三大名城のひとつですね。本当ならもうちょっとじっくり見たかったです。外周もぐるりと一周したかったし。中から見るより外から見るほうが、お城らしくていいですからね。それに、櫓をひとつ見忘れたのが悔しいです・・・。次は本丸御殿が再建されたときに訪れたいなと思います。