ぶらり長岡京

バイクで出かけるには微妙な天気、かといってしばらくは雨が降りそうな気配がない・・・。ということで、なにを思ったか長岡京市に行くことに決定。理由は城があって、なによりJR一本でいけるのでめんどくさくないから(^^)
JR長岡市駅へ着いて目的地の勝龍寺城へ。看板では駅から600mほど。てくてく歩いていくと城の手前に神社を発見。
■神足(こうたり)神社■
「旧神足村の産土神。式内社で「延喜式」にのる乙訓十九座の一で「神足神社」(こうたにのじんじゃ)とみえる。 また、文徳天皇の斉衡元年(八五四)に国の官社にあげられる。 祭神は「舎人親王(天武天皇の子)」であるといわれている。
当社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っている。 「田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、 宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。 天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。」以後、 この社は「神足神社」と田村は「神足村」と呼ばれるようになったと言われる。」(長岡京市観光協会案内板より)
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振り仮名振ってないと絶対読めない地名だな。事前に調べてから寄れたけど、予備知識なければスルーしてた気がする。右が神足神社に残る空堀と土居の遺構で、これはもともと神足氏の居城『神足城』の外堀だったたそうで、細川藤孝が勝竜寺城を整備したときに、城の北東の守りとして外郭に利用されたようです。
神社から300mほどでお城に到着。
■勝龍寺城■
「歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川忠興に嫁いだ城で、後年の山崎の合戦では光秀がここに本陣を構えました。
鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、我が国の城郭史上でも貴重なモノであることが発掘調査で明らかになりました。この跡地が管理棟(資料展示室)、櫓や庭園などを備えた都市の公園の姿で復興しました。」(長岡京市観光協会HPより)
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発掘調査にて見事に復元されています。土塁と石垣の組み合わせは実際そうだったそうです。石垣はこの時期の特徴なのか、福知山城などと同じく石造物を使っていました。建物はすべて模擬。左は高麗門(模擬)、櫓風の管理棟。右が隅櫓(模擬)。
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左が北門跡。明智光秀が山崎の合戦後、この門から落ち延びたらしい。右が細川忠興と玉(ガラシャ)像
近くに勝龍寺がありましたが、本堂真横で住宅工事していたために雰囲気ぶちこわしでした。それがかなり大きな家なのでこのお寺はますます目立たなくなること間違いなしですね。
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お城を後にして、長岡天満宮に向かいます。地図だと近そうですが、距離は2.5kmほどありそう、てくてく歩いていくことにします。
■長岡天満宮■
「山繍国乙訓郡畏岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、 又当天満宮の御祭神菅原道真公が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれたところであります。 道真公が太宰府に左遷せられました時この地にお立ち寄りになり「吾が魂、長くこの地に留まるぺし」 と名残を借しまれた縁故によって公御自作の木像を祀ったのが、当宮の創立てあります。
 爾来、皇室の崇敬殊に厚く、元和三(1617)年には八條宮の御領地となり、 度々の御寄進・御造営・御殊遇をうけ、寛永十五(1638)年には、参道をはさんで南北にひろぴろと広がり、 西山の翠緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀、前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、 両側には樹齢百五十年余、高さ三米に達する『きりしまつつじ」が多数植えられており、 新緑に映える真紅のきりしまの見事さは、まさに我が国随一のものと称されております。」(長岡天満宮紹介より)
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どーーーんと大きな鳥居がお出迎え。右が残念ながらほとどんど終わりかけのキリシマツツジ。
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左は拝殿。拝殿に続く本殿は昭和16年に京都平安神宮の社殿を拝領移築したもので、拝殿は平成10年に既存の素木の拝殿を朱塗りにし増改築したもの。右が境内にある末社の一つで長岡稲荷台明神。
長岡京市は筍の特産地ということをはじめて知り(こういう発見があるから楽しい)境内の出店で焼き筍を一串いただきました。香ばしくてこういうのもありだなと思わせる味でした。
足を伸ばしてボタンで有名らしいお寺へ向かいます。これも1km以上歩いたぞ。
■乙訓(おとくに)寺■
真言宗豊山長谷寺の末寺。聖徳太子が開いたと言われています。延歴4年(785)に早良親王が幽閉され、弘仁2年()811には、空海(弘法大師)が当時の別当に任じられています。境内では約2,000株のボタンが4月下旬に大輪の花を咲かせます。
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すでにシーズンは終わったみたいで、2割程度しか咲いてませんでした。どうりで人が少ないはずだ・・・・。
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左が本堂。右が仏石塔と無数のお地蔵さん。
2割しか残ってないのに入山料300円はちと高いかな。行き交う人もそのようなことを口々にしてましたしね。
あと2つ寺社を回って帰路につこうと、またもてくてく。考えたらレンタサイクル使えばよかったと家に帰ってから気がつきました(^^ゞ
■寂照院■
弘仁10年(819)道雄僧都が創建した海印寺十院のうちのひとつ。四天王立像4体や金剛力士立像2体などがあります。また1227年に道元禅師が中国から持ち帰った孟宗竹を植えたのが、名産乙訓たけのこの始まりともいわれています。
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ピカピカすぎて趣に欠けるお寺ですが、仁王門の仁王は力強そうで結構いいです。右が本堂の裏に保存されている走田9号墳(市指定史跡)。本堂再建時に発見された古墳だそうで、立派な石室が見れます。
その寂照院の裏手に、わたしの好きそうな神社が。
■走田神社■
「奥海印寺・長法寺両村の産土神。式内社で「延喜式」にのる乙訓十九座の一つである。 祭神は、天児屋根命・武甕槌神・経津主神・姫大神の春日四神を祀る。
かつては「妙見社」と言われ寂照寺の鎮守であったが、明治以後、 正式に「走田神社」と呼ばれるようになった。社名の「走田」は初穂をつくる田を指し、 早稲田の守護神であったであろう。なお、正月十三日には御千度詣りや弓講が行われる。 また、明治初め頃まで同じ祭神を祀る小倉神社(大山崎町円明寺)の神輿がこの社まで渡御し、 その道がまだ古老たちによって語り継がれている。」(長岡京市観光協会案内板より)
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最後の最後に落ち着ける神社に来たなぁと感動。この雰囲気があるおかげか、時代劇の撮影でも使われるらしい。確かに納得。
ここで散策を終了して帰路につきました。久々によく歩いたなぁという感じです。6~7kmは歩いたんではなかろうか。
一人でぶらぶらするのも楽しいんですが、ほんとなら相方と散策したかったですな。インフルエンザでせっかくのGWをすべてつぶしちゃったかわいそうな相方。早くよくなってね!
結局夕方まで天気持ったなぁ・・・。これならバイクで出かければよかったかな、とちょっと後悔してたりして(^^)