ぶらり赤穂 その1

見事にいい天気。これはお出掛けしないわけにはいきません。新型インフルエンザもなんのその(^.^)
今回の目的地は赤穂。兵庫県に住んでいながら、一度も訪れたことのないところ。新西国の札所もあるし、赤穂城も見てみたいので、ここを選びました。
播州赤穂駅  息継ぎの井戸
左:新快速に乗って姫路で播州赤穂行きに乗り換えて、はるばる1時間半。駅前には赤穂浪士の像が。
右:花岳寺に行く途中にある、息継ぎの井戸。1701(元禄14)年、江戸で起きた君主浅野内匠頭の一件を大石邸に伝達した早水藤左衛門と萱野三平両氏が、邸宅に入る前に一息ついた井戸とされ、息継ぎ井戸と呼ばれています。
■台雲山 花岳寺(たいうんざん がかくじ)■
「播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓がある。浅野家、赤穂浪士に関する展示物が収蔵されている義士宝物館が併設されている。
江戸時代初期の正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建した。
元禄14年(1701年)、浅野長矩による江戸城松之大廊下での吉良義央に対する刃傷事件が起こり、浅野家は改易となった。翌、元禄15年(1702年)赤穂浪士による吉良邸討ち入りが起きた。(元禄赤穂事件)
その後、赤穂藩には永井家が入り、宝永3年(1706年)には森家が赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めた。赤穂浪士37回忌にあたる元文4年(1739年)には境内に有志により義士墓が建立された。ここには遺髪が納められているとされる。また、宝暦2年(1752年)は赤穂浪士50回忌にあたり、大石良金の幼なじみ藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれた義士塚が建立された。
明治維新の後、赤穂城が解体され塩屋惣門が花岳寺の山門として移築されたとされる。現在、山門は赤穂市文化財に指定されている。」(Wikipediaより)
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左:奥の建物が本堂で、浅野長直が奉納したといわれている釈迦如来が本尊として祀られています。手前の松が「大石名残の松」 大石良雄が母の冥福を祈り植えた松であり、これは2代目。
右:本堂の天井絵(虎と竹)。安政元年(1854年)に赤穂の画家である法橋義信によって描かれたそうです。
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左:拝観料を払って拝観することのできる史跡の一つ、「義士墓」 正面が浅野内匠頭長矩、その右が大石良雄、左には大石主税の墓が置かれ、周囲に塀に沿って右側から格式の順に四十五人の墓がコの字に並んでいます。
右:こちらが新西国の本尊、千手観音。6cmという、目を凝らさないと見えない小ささです。
他にも、菩提寺というだけに、赤穂藩にかかわる人たちのお墓、展示物など盛りだくさん。拝観料を払って、このお寺の隅から隅まで見ないともったいないですね。
お寺を後にして、こちらがメインかも・・・の赤穂城へ向かいます。
■赤穂城■
「赤穂城は、正保2年(1645)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、実に十三年に亘る歳月を費し、寛文元年(1661)に完成したものである。
 城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式になって、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城である。城郭の規模は、十の隅櫓、十二の諸門があり、曲輪の延長は約二、八四七メートル、面積は六万三、七一一平方mに及んでいる。塁石、防壁、諸門、本丸御殿が整えられ、居城としての偉容が示されたが、天守台のみ築かれて天守閣は構築されなかった。
 築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は大名庭園がよみがえっている。
 赤穂義士の自刃250年祭を祈念に、昭和30年春、大手門、大手隅櫓と城壁の一部が復旧され、同46年3月赤穂城跡は国の史跡に指定された。以後、本丸の整備等が進められている。」(web上の説明文より)
赤穂城001  赤穂城002
左:三ノ丸 隅櫓と大手門。枡形を含め復元されています。
右:本丸門枡形全景。昔ながらの工法で復元しています。行ったときには厩口門内部が公開されていました。
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左:二ノ丸から本丸への厩口門。これも復元。復元された建物や石垣はどれも見事だと思いますね。
右:二ノ丸跡と三ノ丸跡も発掘調査中でした。二ノ丸の庭園は整備中で完成が楽しみです。
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左:本丸にある天守台。5層天守の造営も計画されてましたが、幕府への遠慮か財政難の為か建てられませんでした。
右:天守台から見ると、この城がいかに壮大かわかりますねぇ。本丸御殿の間取りが実物大の土台の上に示されています。
5万石の大名としては、大きすぎる気がしますね。実際、これために財政難に陥ったそうです。2万石で森家が入ってからは修理もままならなくなったそうです。
大石邸長屋門
大石内蔵助の邸宅であった長屋門が場内にあります。享保14年(1729)の火災で建物の大半が消失し、現在長屋門だけが残っています。
近藤源八宅跡長屋門001  近藤源八宅跡長屋門002
城内にある近藤源八宅跡長屋門。赤穂城築城の縄張り設計を行った事で知られる 三郎左衛門正純の弟の子が源八です。浅野家改易後この長屋は4戸分に分かれており、下級武士の住まいとされていたらしいです。
前編はここまで。後編は後日。後編の方が、ある意味ネタ満載で面白いかも。楽しみにしててください(^.^)