新西国 三ヶ所巡り

前日の天橋立ツアーの次の日も、ちょこっとお寺巡りしてきました。今回は以前行ったときにご朱印をもらい損ねた叡福寺と、その向かいの西方院へ行くことに。お昼前に家を出たので、この2つに絞ってお参りしました。
近鉄・喜志駅から金剛バスに乗って、太子前で降りると目の前がお寺。
■西方院■
「西方院は大阪府太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向山、寺号は法楽寺。
寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩。
『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。」(Wikipediaより)
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左:こじんまりとした境内にあるこじんまりとした本堂。
右:本堂内陣。聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来像が祀られています。
肝心の三尼公廟所を撮ってくるのを忘れるというへまをしてしまいまして、ちょっと悔しいです・・・。
西方院の向かいが叡福寺。聖徳太子の墓所を守り鎮めるために建立されたというお寺だとか。
■叡福寺■
「大阪府南河内郡太子町にある単立寺院。もとは高野山真言宗。磯長山聖霊院と号し、磯長寺、上の太子、石川寺、御廟寺ともいわれる。
622年(推古天皇30)、聖徳太子が没すると当地の墓所に葬られ、推古天皇の勅により堂宇が建立されたのが草創。724年(神亀1)聖武天皇により七堂伽藍が整備された。
歴代の天皇に尊崇され、鎌倉時代には亀山上皇から荘園の寄進を受け、石高2万石に及んだという。また空海、親鸞、日蓮ら諸宗の高僧が崇敬し参籠した。1574年(天正2)兵火により焼失したが、1603年(慶長8)に豊臣秀頼により再興、聖霊殿(国の重要文化財)など諸堂が再建された。現在の多宝塔(国の重要文化財)、金堂、念仏堂などは再興後の建立。
境内正面奥の陵には太子の生母(穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后)と太子の妃も葬られており、三骨一廟といわれる。寺宝の文殊渡海図、高屋連枚人(たかやのむらじひろひと)墓誌は国の重要文化財。4月10~12日の聖徳太子御法会(ごほうえ)(上の太子御会式(ごえしき))は多数の参拝者でにぎわう。 」(Yahoo!百科事典より)
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左:金堂。享保17年(1732年)に再建されたものといわれ、本尊の如意輪観世音菩薩が祀られています。
右:聖徳太子廟。山門をくぐると真正面にあり、ここがお墓を守るために建てられたんだなぁと実感できますね。
その昔は、法隆寺と同じように東院(東福院)、西院(叡福寺)からなっていて、壮大な伽藍を誇ったそうです。再建後も規模は小さくなったとはいえ、十分見ごたえのあるお寺だと思います。
この日は、2つのお寺でおしまい。で、5月3日は京都での用事の前に、1ヶ所参っておこうかと思い、新西国の京都で唯一残ってた、大報恩寺、通称「千本釈迦堂」へ行くことにしました。
京都駅からバス・・・というのが、一般的な行きかたです。でも、実際は嵐電・北野白梅町駅で降りて、北野天満宮や平岡神社らとセットで回る方が効率がいいと思います。
■大報恩寺■
「京都市上京区溝前町にある真言宗智山派の寺。新西国三十三所第16番札所。山号は瑞応山。本尊は釈迦如来。一般には千本釈迦堂あるいは北野釈迦堂とよばれる。
鎌倉初期、1221年(承久3)藤原秀衡の孫にあたる義空によって開創された。その後、1223年(貞応2)に義空は大堂の建立を発願し、摂津の材木商の寄進を受けて1227年(安貞1)に完成。大恩教主釈迦如来へ報恩謝徳のため、釈迦如来を本尊として祀り、寺号を大報恩寺とし、倶舎・天台・真言の三宗兼学とされた。
その後、天台宗となり、江戸時代に真言宗となった。室町時代ころの寺領は、山城・播磨・丹波・河内など畿内諸国に及ぶ。江戸時代には朱印寺領100石を受けている。応仁の乱などたびたびの火災で諸堂を焼失したが、釈迦堂(本堂)のみは創建当時のままで、京都市内最古の木造建築として、厨子、棟木、棟札とともに国宝。本尊は快慶の弟子行快の作で、快慶晩年の作釈迦十大弟子像とともに国の重要文化財。また定慶作の木造六観音像6躯(付像内納入経8巻)、銅造誕生仏立像などの国の重要文化財を蔵する。おかめ節分会(せつぶんえ)や、中風よけ・諸病封じを祈願する12月7、8日の成道会(じょうどうえ)大根焚(た)きは有名。」(Yahoo!百科事典より)
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左:国宝である本堂。応仁の乱などの度重なる災害にも焼けることなく残り、京都市内では最古の仏堂建築物だそうで、霊宝殿とセットで拝観できます。霊宝殿の「六観音像」(伝定慶作)、「十大弟子像」(伝快慶作)は一見の価値ありです。
右:おかめ像。おかめ伝説に基づいて建てられたとか。この寺に伝わるおかめ伝説とは以下のとおり。
「本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが枡組を用いたらどうかとひと言アドバイスし結果無事に竣工させることができた。おかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。 度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。」(Wikipediaより)
ちなみに、この大報恩寺より、EOS Kiss X2 にて、撮影しています。あんまり変化がないような気もしないでもないけど、これはトリミングしているからであって、オリジナルではまったく違うことがわかります。買ってよかったなぁ・・・と、思う今日この頃(^^ゞ