安土 城攻め・寺攻め その3

近江風土紀の丘ですでに時刻は2時半。飯も食わずに(水分とソフトクリームしか取ってない)、教のメインディッシュ、安土城へ向かいます。
自転車で10分ほどで到着。よく考えると、自転車トータルで1時間も乗ってないぞ(^^ゞ


■安土城■
安土城(あづちじょう)は、滋賀県蒲生郡安土町下豊浦にあった日本の城(山城)である。城址は国指定特別史跡。
戦国期、織田信長が天下統一のための拠点として築いた城。滋賀県蒲生郡安土町にある。普請奉行は丹羽長秀で、1576年(天正4)に着工し、79年にほぼ完成したが、信長は着工の直後、建物の一部ができあがるとすぐ稲葉山城から居を移している。
信長が岐阜から安土に城を移したのは、一つには越後(新潟県)の上杉謙信対策であり、一つには北陸の一向一揆を監視するためであった。しかも、岐阜よりははるかに京都に近く、琵琶(湖の水運を掌握できるという利点もあったからである。
城郭史からみて安土城が特筆されるのは、五層七重(地上6階地下1階)の天守閣が建てられたことである。この天守閣は『信長公記』のなかの「安土山御天主之次第」や、キリスト教宣教師たちの描写によってかなりはっきりしており、内部の柱には金箔がはられ、外部は各層が違った色で塗ってあったことや、客間としての書院、納戸、台所などが備わり、座敷は畳敷きで、障壁には狩野永徳の絵が描かれていたのである。
なお、城はちょうど琵琶湖に突き出た形で、麓(ふもと)から山頂まで約100メートルほどの安土山に曲輪が配置され、本丸、二の丸を中心として、家臣の屋敷がそれぞれ一つの曲輪の形となっていた。城は1582年(天正10)の本能寺の変に続く山崎の戦いの余波で焼け落ちてしまい、現在、穴太積みの手法による広壮な石垣と、本丸、天守台部分の礎石などが残るだけである。
かつて徳川家康邸のあった所は現在總見寺が建てられ、二の丸には信長廟があり、城跡全体が特別史跡に指定されている。また、城下には安土セミナリオ跡もある。(Yahoo!百科事典より)


大手道  伝羽柴低跡
右:入山料500円払って(安土城跡のほとんどは總見寺の寺領のため)、いざ登城。平成の発掘調査によって復元された大手道。馬で上がることを想定して造られているらしいです。
左:向かって左側にある、伝羽柴秀吉手邸跡。博物館で復元模型を見ましたが、規模がでかすぎでまるで城砦。二段構えの廓になってます。
伝前田邸跡  伝織田信忠邸跡
左:伝羽柴秀吉手邸跡の向いにある伝前田利家邸跡。秀吉邸ほど整備されていないのか、入り口(虎口
くらいまでしか入れません。石垣は三段で、こちらも実際はかなりの規模だったみたい。
右:大手道の途中で伝徳川家康邸跡があり、今は見寺が移ってます。大手道を上がりきったところにある、伝織田信忠邸跡。
黒金門  二の丸
左:黒金門跡。ここから城内の中核部である、本丸、二の丸、三の丸へ入ります。要となる門なので、立派な造りになっていますね。
左:伝二の丸跡。上方に見えるのが、信長廟。これは天正11年(1584)2月、信長の一周忌の法要を大徳寺で終えた羽柴秀吉が信長の太刀、烏帽子、垂直などを埋めて廟所を建立したものです。
本丸  天守跡
左:本丸跡。内裏の清涼殿と同じ平面を持つ千畳敷と呼ばれる本丸御殿が建てられていたらしい。天皇を迎えるための行幸御殿であったそうな。
右:天守跡の礎石。ここに豪華絢爛たる五層七階の天守がそびえていたんですね。天守台は不等辺七角形とう珍しい形状。現在は石垣が一回り小さくなってしまっています。
天守台、本丸等を後にして、伝織田信忠邸跡から、見寺跡へ向かいます。


■見寺■
見寺(そうけんじ)は滋賀県蒲生郡安土町安土城跡にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は「遠景山」。
天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって城郭内に建立された。開山は、織田一族の岩倉城主主織田信安の三男で禅僧の剛可正仲とされているが、実際の創建時の住職は尭照であったようである。
織田信長は、近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したようである。具体的には、重要文化財に指定されている二王門や三重塔などをあげられる。
江戸時代の寺領は227石5斗余りであった。ただし、檀家は持たなかった。18世紀末の段階では仁王門、書院、方丈など22棟の建物のあったことを確認できる。ただし、安政元年(1854年)11月16日、本堂など主要な建物のほとんどを焼失した。その後、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てた。明治維新後、寺領の喪失などにより、衰退していった。なお、明治18年(1885年)8月1日、内務省は修繕費50円を与えている。
元禄8年(1695年)5月、丹波柏原藩主織田信休は大和国松山城下の徳源寺にあった同家の歴代当主織田信雄・高長・長頼・信武の墓を安土城長谷川秀一邸跡に移す。これは織田家の宇陀松山藩から丹波柏原藩への転封にともなうものであった。現在も伝長谷川邸跡に四基の五輪石塔がある。
なお、江戸時代には同寺で天和元年(1681年)に信長の百回忌、享保16年(1731年)に百五十回忌、天明元年(1781年)に二百回忌、天保3年(1832年)に二百五十回忌の法事が営まれた。その際には丹波柏原藩主織田家をはじめとする織田一族や領主である近江仁正寺藩主市橋家から使者が派遣されている。(Wikipediaより)


見寺_001  見寺_002
左:見寺跡へ続く道。
右:本堂跡。1854年(安政1)の大火で本堂などを焼失、その後、大手門近くの徳川家康邸跡に仮本堂が建てられました。
見寺_003  見寺_004
左:三重塔。享徳3年(1454)の建立。天正3~4年に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移建したものとされています。重要文化財。
右:仁王門。元亀2年(1571)の建立。仁王像含めて重要文化財です。


たった3年しか存在しなかった幻の城、安土城。発掘調査が進んで、かなりのことがわかってきました。石垣だけとはいえ、ここにはロマンがあります。信長になった気分が味わえますもんね(^.^)


時間は4時過ぎ。もう一つ行かねばならないところが・・・と、自転車をこぎます。駅の西側にある、安土城郭資料館。ここには1/20スケールの安土城復元模型が!
資料館_001
で・・・行ってみると、休館日。なんでやねん!
セミナリヨ_001
これはセミナリヨ跡。イタリア人宣教師オルガンチノによって天正9年(1581)に創建された日本最初のキリシタン神学校の跡。 しかし、安土城炎上の際に焼失し、現在は推定地の一部が公園として整備されています。


丸一日、安土を昼飯も食わずにうろうろ。ほんとに楽しかったです。滋賀っていいところだなぁと再確認。まだまだ、行きたいお寺、神社、町並みたくさんありますし、次は泊りがけでさらにじっくり見て回りたいもんです(^.^)