西大寺・西ノ京エリア お寺巡り その1

先日のことですが、土曜出勤の代休を取りました。そしていい天気。平日休みでいい天気・・・こんな条件が揃えば、もうお寺めぐりしかありません(^.^)
最初は、和歌山の新西国の残りと高野山に行こうと思ったけど、遠いので却下(^^ゞ そこで、今まで行って、ご朱印をもらっていないところとか、駅は利用するのにそばのお寺に入ったことのない西大寺・西ノ京エリアのお寺を巡ることに決定。
近鉄乗って、平城駅で降ります。最初の目的地、秋篠寺は駅から徒歩10分くらいで着きます。競輪場のすぐ近くにあるとは思えないお寺がそこにあります。
■秋篠寺(あきしのでら)■
「秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院。本尊は薬師如来、開基(創立者)は善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。
奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠が創建したとされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、創建の具体的な時期や事情については、たしかなことはわかっていない。『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したとあるのが文献上の初見である(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。また、『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったと思われる。
秋篠寺は平安時代後期から寺領を増大させ、南に位置する西大寺との間にはたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である。
宗旨は、かつては法相宗と真言宗を兼学し、明治時代以降浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立となっている。」(Wikipediaより)
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左:拝観入口は東門になっていますが、本来の正門はこの南門です。
右:門と本堂の間には、雑木林があり、根元は見事に苔むしております。
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左:本堂は国宝です。元々は講堂。鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つ。秋篠寺で一番有名な、技芸天立像(ぎげいてんりゅうぞう:重要文化財)はここで、間近に拝顔することができます。
右:大元堂。本堂西側。秘仏の大元帥明王像(重要文化財)を安置しています。年に一回、6月6日のみ、一般の拝観が可能。
秋篠寺のご朱印は、この6月6日しか頂けないということをはじめて知りました。秋篠寺のご朱印は結構レアなんですね(^.^)
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秋篠寺の鎮守社として鎮座している八所御霊神社。崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、橘逸勢、文屋田宮麿、藤原廣嗣、吉備大神、大雷神と八柱を祀るところから八所御霊というそうです。
秋篠寺から、てくてくと歩いて西大寺へ。15分も歩けば到着します。
■勝宝山 西大寺(しょうほうざん だいだいじ)■
「西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある、真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰(じょうとう)を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって復興された。山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来である。
西大寺の創建は奈良時代の天平宝宇八年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。
造営は翌天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたが、当時の境域は東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。
文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。しかし、その後、平安時代に再三の災害に遭い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに衰退した。
しかし鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(1201~1290)がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の根本道場として伽藍を整備された。いまみる西大寺はほぼこの頃のプランを伝えている。
興正菩薩は鎌倉時代の南都四律匠の一人で当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。したがって、その後、西大寺は室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失ったけれども、興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として寺宝や宗教的によくその寺格と由緒をしのぶことができる。」(WEB上の説明より)
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左:西大寺の東門。訪れた時に光明真言土砂加持大法会という行事が行われていました。これは、西大寺一門最大の法要だとか。宗内僧侶の総出仕の下、本堂で光明真言の功徳で土砂を加持して、三昼夜続けて総回向の法要が営まれるそうです。
右:四王堂。創建期の由緒を伝える唯一の堂で、現在のは延宝2年(1674年)の再建。十一面観音立像(重文)と四天王立像(重文)が祀られています。
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左:西大寺は大和四神の玄武にあたるそうです。平城遷都1300年にあわせ、平城京の北の守り神として同寺が制作した陶板画が安置されていました。
右:愛染堂。京都御所の近衛公政所御殿を宝暦12年(1762年)移築したものだそうです。愛染明王坐像(重文)が祀られていて、普段は秘仏ですが、年に一度、ご開帳されます。
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左:本堂は文化5年(1808年)頃に新築されたもので、江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作として、1998年重要文化財に指定されています。
右:境内の八角七重塔であった東西両塔は東塔跡だけが残ります。
圧倒的な拝観者数を誇る東大寺に比べると、はるかにその数は少なく、かなり経営は大変らしいとか。いいお寺なんですけど、途中下車して拝観してくれる人は少ないのでしょうかねぇ・・・。
西大寺エリアを後にして、西ノ京へ行きます。西ノ京には、超がつくほど有名なお寺が2つ。
そして・・・その2へ続きます(^^ゞ