大山崎町を歩く その2

大山崎山荘美術館に行ったついでにお参りした寺社です。
こうやってみると、お寺も神社もどこにでもありますし、その由来はそれぞれ調べてみると楽しいもんです。だから、止められんのですな(^.^)


■天王山 宝積寺(てんのうざん ほうしゃくじ)■ 
「宝積寺(ほうしゃくじ)は京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は天王山または銭原山(古くは補陀洛山といった)、本尊は十一面観音である。724年、聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝える。
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいう。
宝積寺は、山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てた僧である。
行基は神亀2年(725年)、淀川に「山崎橋」(山崎-橋本間)を架けている。また、『行基年譜』によれば、行基は天平3年(731年)、乙訓郡山崎に「山崎院」を建立している。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、ここからは日本でも最古級の壁画断片などが出土している。以上のことから、天王山周辺は行基にゆかりの深い地であることは確かで、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。
宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995年-999年)、寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。
11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見える。また、藤原定家の日記「明月記」には建仁2年(1202年)に彼が宝積寺を訪れたことが記されている。
天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦の舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木和泉守を始めとする十七烈士らの陣地がおかれた。
明治時代には夏目漱石が「漱石日記」に宝積寺について記している。」(Wikipediaより)
宝積寺001  宝積寺002
左:美術館からだと、天王山の山頂へ行く道からお寺に入れますが、仁王門からではなく、鎮守堂横から入山となります。この仁王門にある金剛力士像は重要文化財だそうです。
右:境内。こちらもかなり紅葉が美しいですねぇ。
宝積寺003  宝積寺004
左:1606年改築の本堂。ご本尊は十一面観音。
右:閻魔堂。閻魔堂安置の閻魔王、司命、司録、倶生神、闇黒童子の各像はいずれも鎌倉時代の作で、閻魔一族の像としては日本でも古くかつ優れた作品の1つであり、重要文化財です。
宝積寺005  宝積寺006
左:桃山時代建立の三重塔。重要文化財です。
右:石造五重塔 。大山崎町文化財、。倉時代、五重塔として建てられ、その後九重に積み上げられた聖武天皇の供養塔だそうです。見るからに危なっかしい石塔(^^ゞ


 ■見仏山 大念寺(みほとけさん だいねんじ)■
「大念寺(だいねんじ)は京都府乙訓郡大山崎町にある浄土宗の仏教寺院です。山号は見仏山。 天王山の山麓、宝積寺、アサヒビール大山崎山荘美術館のすぐ下に位置します。
室町時代後期の弘治元年(1555年)に井尻但馬守長助による開基、知恩院から招いた徳誉光然が開山しました。 堂宇は禁門の変で兵火を受けて焼失しましたが、その後再建されて現在に至ります。」(Web上の説明より)
宝積寺を出て(仁王門から)下っていくと、大念寺があります。下手すると見落とす可能性大。石段を登ってみようという興味がわかないと発見できません(^^ゞ
大念寺001  大念寺002
左:小さな山門。ここだけ見ると大きいお屋敷にしか見えない。
右:本堂。本尊である木造阿弥陀如来立像(重要文化財)が祀られています。本堂の前に車とバイクはとめないで欲しかった・・・(^^ゞ


■山崎聖天(やまざきしょうてん)■
「山崎聖天(やまざきしょうてん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある真言宗系単立寺院の観音寺の別名。山号は、「妙音山」。観音寺よりも「山崎聖天」、「山崎の聖天さん」と呼ばれ、厚い信仰を受けている。
また、境内には桜が多く植えられており、春には多くの行楽客が訪れる。
昌泰(しょうたい)2年(899年)に寛平法皇(宇多天皇)が創建。その後、江戸時代に歓喜天を鎮守として祀り、特に商人から信仰された。しかし、禁門の変に巻き込まれ、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失した。2006年現在ある建物は明治時代に再建されたものである。」(Wikipediaより)
大念寺から、大山崎山荘美術館へ上がる道を通り越して進むと山崎聖天へ向かいます。
山崎聖天001  山崎聖天002
左:山門へ上がる石段。参道は、県道からJR、阪急の高架下を通ってこの石段へ続いています。参道にはお寺なのに鳥居が。聖天堂が神社造なのは明正天皇の命令によるものだそうで、お寺でありながら鳥居があり、一の鳥居には観音寺、二の鳥居には聖天宮の扁額が掛かっています。
右:山門はとっても立派です。
山崎聖天003  山崎聖天004
左:手前が本堂で、奥が聖天堂。本尊は十一面観音菩薩。聖天堂には歓喜天が祀られています。
右:庫裏境内で一番立派な建物だと思う(^^ゞ


■離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)■
「離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。
石清水八幡宮の元社にあたる神社。八幡大神を祭神とする。大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都の近くに移座し国家を鎮護せん」と神託をし、嵯峨天皇の離宮跡であるこの地にきた時、霊光を見て、掘ってみると岩間から湧き水が出たという。
時の神官が搾油器を発明し「荏胡麻油」の製油が起こったことで、日本における製油発祥地とされる。「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して大いに栄えたという。」(Wikipediaより)
JR山崎駅前にある神社。ここを最後にお参りました。
離宮八幡宮001  離宮八幡宮002
左:惣門。駅からだと東門よりこちらのものの方が近いです。この門は大山崎町指定文化財。
右:中門。その奥に本殿がありますが、工事中だったので入るのを断念。


大山崎町にも面白いお寺は神社が結構ありました。あと、2、3まわっていないところもありますので、次回季節が変わった時に、また訪れたいなと思います。