シーズン前に嵐山散策 その1

その1の続き。この日は暖かかったので、冷たーいおやつを(^.^)
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左:「京豆庵」の逆さにしても落ちない豆乳ソフト。絹ごし・黒胡麻のミックスで1個250円なり(^.^)
右:京都嵐山オルゴール博物館。今回はパス。次回、想い出博物館とセットで見学したいなと思います。
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嵐山といえば、竹林の小道ですなぁ(^.^)
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左:京都嵯峨たまごや。ゆで卵ウマウマ。
右:こんなのあったっけと思った土佐四天王の像。「龍馬伝」放映にあわせて作ったのかな?
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左:立派な桜。民家にありましたが、庭でこの木の下で宴会ができる身分がうらやましい(^.^)
右:家の番をする柴。行き帰りにこの家の前を通りましたが、おなじスフィンクス状態でした。かわゆす(^.^)
てくてく歩いて、大覚寺へ。
大覚寺■
「京都市右京区嵯峨大沢町にある寺。真言宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所ともいう。本尊は五大明王。平安初期、嵯峨天皇は当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞御所とし嵯峨院と称したが、811年(弘仁2)に空海に勅して五大明王像を刻し、五大明王の秘法を修せしめた。818年(弘仁9)春、疫病流行の際、天皇は紺紙金泥の『般若心経』を書写して心経堂を建て、空海が奉供した。この縁でいまでも心経写経を進めている。
876年(貞観18)嵯峨天皇の皇女正子内親皇(淳和天皇皇后)が嵯峨院を譲り受けて仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂法親王が開山となり、以後、代々法親王が入った。1268年(文永5)後嵯峨上皇が、続いて亀山(かめやま)法皇が入寺。また1308年(延慶1)には後宇多法皇が入寺して伽藍の造営に努めたので、大覚寺法皇と称せられ当山の中興開山とされる。
亀山院、後宇多院の皇統に属する皇族が代々住持を勤めたので、この皇統を大覚寺統とよび、後深草天皇の皇統である持明(院統と勢力を二分し、南北両朝分立の原因ともなった。
1336年(延元1・建武3)兵火により全焼、のち再建された。1392年(元中9・明徳3)南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の講和のおり、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が授受された歴史的舞台としても知られる。応仁の乱でふたたび焼失したが、豊臣・徳川両家の外によりしだいに旧に復した。江戸末期から明治初期にかけて衰退し、一時無住となったが、1876年(明治9)に宮中から200石を受けて復興し、1900年(明治33)に大覚寺派として独立した。」(yahoo!百科事典より)
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左:式台玄関。ここから境内へ。江戸時代の建立で、玄関の部屋は「松の間」とよばれています。
右:勅使門。嘉永年間(1848~54)の再建。
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左:正寝殿。桃山時代建立の書院造建築で、重要文化財。
右:御影堂。大正14年の建立で、大正天皇即位式場に建てられた饗宴殿を式後賜り移築したもの。
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左:宸殿。江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。これも重要文化財。
右:五大堂。大覚寺の本堂で、天明年間(1781-1789年)の建立。
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左:境内の桜は咲き初めといったところ。
右:時代劇のロケで有名な大沢池。わたしも撮影で一回来たことあります(^.^)
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こちらの桜は満開に近かった。きれいでしたよ。
桜がまだ満開になっていないからなのか、自粛ムードからなのか、ポカポカ陽気の行楽日和にもかかわらず、思った以上に観光客は少なかったように感じました。写真を見てもらえれば、わかるかと思いますが・・・
こんなに空いている大覚寺(参拝客は10人と見かけなかった)なんて、普段はあり得ないはず。
自粛自粛・・・そんなんでは、経済が回りません。わたしたちは、自粛など意識せず、できるかぎり普段どおりに生活して行こうと思いました。
また嵐山に行くぞ!! もちろん、桜のシーズンが終わった後でね(^_^;)