光秀のルーツ“明智荘”めぐり その1

緊急事態宣言も解除されましたが、すぐには元の日常に戻るわけではなく、城巡りなんてまだ難しい状況に変わりはありません。そこで、今回も去年の秋に廻ったところをUPしたいと思います。
わたしがずっと楽しんでいる位置情報(GPS)アプリ、「ニッポン城めぐり」の地域限定城めぐり第十一弾「光秀のルーツ“明智荘”めぐり」というイベントで岐阜のほうを始めてドライブしてきました。
このアプリ、ずっと遊んでましたが、イベントの類は全然したことなかったんです。こういうことでもない限り岐阜のこのあたりなんてまず行くことなかったんだろうなと思うと、良い機会を作ってくれたなぁと感謝感謝(^.^)


土田城は織田信長の生母、土田(どた)御前が生まれ育ったところだという(諸説あり)。現在城址に遺構はほぼ無いので石碑のみパチリ。

 
大森城は金山城主・森長可に仕えていた奥村又八郎元広の居城です。城山の東麓にある大森神社に登城口があります。散策している時間はないので、看板だけ見て次へ(^^;)


久々利城近くの可児郷土歴史館。訪れた時は「森氏の東美濃攻略」という催しをしていました。歴史館を含めこの一帯が江戸期の千村氏屋敷跡だったそうです。

歴史館に車を止めて、久々利城攻め開始。
「延元・正平年間(1336年-1370年)土岐康貞が築城した。戦国時代には康貞の末裔久々利頼興が居城として東濃に勢威を誇ったが、天正11年(1583年)に金山城主の森長可に攻められ陥落、以後は森家家臣・戸田勘左衛門が城代となった。慶長5年(1600年)に森家が信濃に転封となると廃城となった。(Wikipediaより)」
 
左:桝形虎口。死角から矢で撃たれそう(^^;)
右:三の丸にある切岸。切岸とは斜面を削って人工的に断崖としたもので、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られました。

 
左:本丸。見晴らしは最高(^.^)
右:堀切。言われなければ山道にしか見えませんけどね(^^;)

整備が行き届いて実に散策しやすかった久々利城を後にして、明智城方面へ。

途中で一つお寺に寄ってみました。
 
東禅寺とありました。調べてみたら久々利領主にして尾張藩重臣であった千村氏の菩提寺でした。

 
明智城址。ジックリ散策している時間もないので、ちゃちゃっと踏みしめてきただけ(^^;)

 
天龍寺近くにあった東栄寺。瀬田最古のお寺でかつては明智一族の菩提寺であったそうです。


天龍寺。明智家の菩提寺とされる寺なので、家紋である水色桔梗が本堂に。

 
左:命日6月13日にちなむ、6尺1寸3分(184センチ)の巨大位牌。戒名は「長存寺殿明窓玄智禅定門(ちょうぞんじでんみょうそうげんちぜんじょうもん)」。右には光秀の木像。
右:明智一族歴代の墓所がありました。とはいえ、本当にそうなのか・・・と言われると、諸説あるらしいとか。

その1はここまで。後半は美濃金山城あたりを散策してますので、近いうちにUPしたいと思います。