光秀のルーツ“明智荘”めぐり その2

2020年7月4日

前の更新から空きましたけど、その2、ただいまよりスタート(^.^)

美濃金山城の近くにある戦国山城ミュージアムへ着きました。

明治18年(1885年)に竣工した小学校校舎だそうで、懸け造りの3階建て(南面からは2階造り、北面からは総3階)という造りが学校建築としては極めて稀で貴重な建物となっています。
でも、今回は裏見てない・・・(^^;)

 
左:久々利城のジオラマ。
右:廃止となった名鉄八百津線に関する資料も展示されていました。

ミュージアムの近くに、森家ゆかりのお寺があるので行ってみました。
まずは慈光山・常照寺。森家菩提寺の可成寺の近くにあります。森家の家老であった林長兵衛為忠によって建立されました。開山は妙向尼の末子暮久と言われています。森蘭蘭丸愛用の鑓の穂先・妙向尼の画像(2幅)があるそうですが、非公開なのが残念。

左:お寺自体はこじんまりとしています。
右:妙向尼墓所。左が妙向尼墓碑。妙向尼は林通安の娘で、森可成の妻となり、長可・成利(蘭丸)らを産みました。右が妙向尼の父、林新右衛門常照の墓碑。


大龍山・可成寺。元亀2(1571)年、長可が父可成を弔うために建立した寺で森家の菩提寺となっています。裏手に森一族の墓があります。

 
左:向かって左から、森長可(可成次男)、森可成、森可行(可成・父)、可隆(可成長男)の墓碑。
右:向かって左から、森坊丸(可成四男)、森蘭丸(可成三男)、森力丸(可成五男)の墓碑。

時間も無くなってきましたので、最後の締めに城攻め。美濃金山城へ向かいます。
「天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられた。永禄8年(1565年)に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称した。(Wikipediaより)」
 
左:出丸と呼ばれる曲輪の石垣。ここは駐車場になっているので整備が行き届いてます。
右:三の丸門跡。三の丸の南側に存在した門。両側とも土塀と隣接し、正面から見て左側に門番がいたと考えられています。

 
左:二の丸。破城の跡に碑が立っているみたいです。
右:本丸前の枡形虎口。


左:本丸跡。見晴らしはよかった(^.^)
右:天守台。算木積みになっています。


左:虎口のように見えるけど、これは小天守下にあった穴蔵跡。この上を塞ぐように小天守が築かれ、この地下の穴蔵を通って本丸北側へ出られたそうです。
右:は金山城の山麓北側に残る、米蔵跡。ここはかつての美濃金山城への登城口で、江戸時代からは年貢米を貯蔵する米蔵があったとか。

そういえば現城主であるカモシカと城内で遭遇しました。

あと数匹、つぶらな瞳で見つめられました。襲われるんじゃないかとちょっと冷や冷やしましたが(^.^)

この辺で夕方になりましたので、岐阜を後にしました。また機会があれば、ちゃーっとドライブがてらいろんなところに行ってみたいものです。自宅から2,3時間で行けるところですからね(^.^)