最終的には篠山なプチツー その3

2回で終わらせるはずが、根性無しの管理人なので後もう少しというところで飽きちゃいまして・・・・。
では、気を取り直して3回目スタート!
慶長十三年(1608)、家康は実子とされる松平康重を常陸国笠間城から移して、八上城の西方に新城を作らせました。これが今に残る丹波篠山城です(近江篠山城もあったりする)。
篠山城築城には、普請奉行に池田輝政が命じられ、藤堂高虎の縄張りにより西国大名の天下普請で築かれました。篠山城には、天守台が築かれたが天守は建てられませんでした。
西方の大名の勢力をそぐため、来るべき豊臣方との戦いのため、戦略の要衝に天下普請で築かれたのです。築城工事は総勢8万人という莫大な労働力と財力を投入しての突貫工事の末、1年足らずで完成。松平康重は初代の篠山城主として入城し、八上城は廃城となり篠山城が丹波国支配の中心となりました。
元和5年(1619)松平康重は和泉岸和田に移封され、上野高崎より松平(藤井)信吉が篠山城主となりました。その後、松平(藤井)氏2代、松平(形原)氏5代を経て、寛延元年(1748)丹波亀山より青山忠朝が6万石で入封。以後、篠山城は青山氏6代の居城として明治維新を迎えました。
今は、本丸跡、二の丸跡、石垣、堀、馬出跡が残っており、国の史跡に指定されています。
 
左が入り口。二の丸に至る門があったところです。右が2の丸西側の石垣。すごく高いです。そして立派です。とても5万石の大名の城とは思えないくらい。それほど、この篠山の地が重要だったということでしょうか。
 
右が本丸の東南隅にある天守台です。あまりに堅固な城郭であるとの理由から、幕府から天守の建築を中止されたらしい。すでに材料を準備していながらも、幕府の本多正信が「天守は敵方のねらいとなるものなれば、ひとつも用に立たぬもの」とか、あるいは次に予定していた名古屋城の築城に、篠山城に動員された大名のほとんどが、改めて命じられたので、工事を中止したともいわれているそうな。
左は本丸に祀られている、旧藩主青山家の遠祖、青山忠俊及び青山家中興の藩主と称された青山忠裕を祭神とした神社です。
城を後にして、町の東にある「河原町妻入商家群」に行きます。

河原町はかつて城下町の商業の中心として賑わいをみせた町で、現在も間口が狭く、奥行きの長い妻入りの建物が立ち並んでいます。わたしが訪れたときはもう夕方で、「能楽資料館」「丹波古陶館」といった資料館は閉館してました。残念。なかなか、なつかしい感じのする町並みですね。
王地山公園のそばにある、「王地山まけきらい稲荷」に最後にお参り。

いくつもの朱色の鮮やかな鳥居が立ち並ぶ様はきれいです。藩主青山忠裕が老中だったころ、領内のお稲荷さんが力士に化けて将軍上覧の大相撲で優勝し、負けきらいの殿様を大いに喜ばせたことに感謝して奉られたのが起こりといわれてます。このような言い伝えから、近年は招福除災、商売繁盛、勝利守護、そして合格成就の神として遠く県外からも信仰参拝者が訪れているそうな。わたしもいろいろお願いしておきました。お賽銭の額がそれに担うだけあるかどうかは、ここでは言えませんが・・・(^^ゞ
訪れたのが、5月2日だということ、気温が低くて寒かったことをのぞいても、すごく人が少なくて、落ち着けるいい観光地だと思います。前回も土曜日に来たんですが、同じような人手でしたから。
半日程度あれば十分町を回れますしね。道中に立ち寄る観光地として、かなりお勧めします。
ここに来たら、必ず「小西の黒豆パン」を食べましょう。絶品です。あと、パン食べるときの飲み物は「ビーンズサワー」が一押し。これはなんと、黒豆の煮汁を元にしたジュース。見た目はグレープジュース。味は・・・ぜひお試しあれ。思ったよりはうまいと感じるはずです(^.^)
篠山は本来は桜の名所。次に行くならやはり春かなぁ・・・。