GWは安・近・短2011その6 明石プチ散策
GW最終日である5日は、当初、大念佛寺の万部おねりへ行く予定でしたが、諸般の都合で断念。
そこで、明石市立博物館に「親鸞展」を見に行くことにしました。開催が8日までなので、今行っておかないとと思い立ちましたので(^.^)
左:JR明石駅を降りて、明石城を眺めつつ博物館へ。
右:明石市立博物館。西明石に2年ほど住んでいたというのに、来たのは初めてだったりします。
「親鸞展」のほうは、よかったんですが、もうちょっとボリュームが欲しかったかなぁ。複製品や写真での展示が多かったからそう感じたのかも。
博物館から、明石市のシンボルである明石城へ。城好きの癖に、この城も来訪するのは初めて。明石に住んでて駅から毎日のように見てたくせに(^_^;)
■明石城■
「大阪の陣の功により小笠原忠真は10万石を与えられ船上城に入った。しかし中世的な城を嫌い、元和2年(1616)新城を築き始める。幕府より普請奉行が派遣され伏見、三木、船上城から遺材が運ばれ元和5年ほぼ完成した。幕府より費用が補助され西国に備えた姫路城の後詰の城の意味合いがあったようである。本丸に天守台が築かれたが天守は築かれなかった。
寛永9年(1632)忠真が小倉に移封となるとその後戸田氏、大久保氏、松平氏本多氏が入り、天和2年(1682)松平直明が入り、以後明治まで松平氏が治める。」(web上の説明より)
左:博物館からだと、東ノ丸、二ノ丸と進んでいくことになります。
右:本丸。藩主の居館がありました。
巽櫓。現存する城内の建築物のひとつ。重要文化財。
「本丸の南東端に築かれた三層の櫓である。桁行き5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ7間1寸(12.19m)の隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋づくりである。」(公式サイトより)
坤(ひつじさる)櫓。現存する城内の建築物のひとつ。こちらも重要文化財。
「天守閣が造られなかった明石城では最大の規模をもつ櫓である。天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割を果たしたとみられる。
桁行6間(10.90m)、梁間5間(9.09m)、高さ7間2尺9寸(13.60m)、の入り母屋づくりで、妻部を南北に向け、棟の方向が巽櫓とまったく異なっている。
昭和57年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられた。」(公式サイトより)
坤櫓は内部が無料公開されていました。斜めの筋交いなどは、補強工事の際に追加されました。
左:天守台。広さから推察すると5重の天守が築かれる予定だったそうですが、天守は建設されませんでした。
右:本丸から下ったところにある、稲荷曲輪。
扇の勾配とよばれる見事な石垣。
左:塀で連結した櫓の姿は美しいですなぁ。この長塀は阪神大震災後の復旧工事の際に復元されました。
右:大手門枡形。ちょうど逆周りで城を抜けてきました。
お城を後にして、付近をぶらっと散策。
左:お寺を発見。雲晴禅寺とあります。曹洞宗のお寺。
右:亀の水(月照寺の清水)。「柿本神社・月照寺の西参道の入り口にある明石・亀の水は、人丸山から涌き出る霊泉が亀の口から流れ出ています。この水は播磨三名水・播磨十水のひとつで、長寿の水とも呼ばれています。
手水鉢は常陸国の役人飯塚宣政が1719年(享保4年)に寄進したものです。」(WEB上の説明より)
左:月照寺。こちらも曹洞宗のお寺。月照寺の山門は、もとは伏見城の薬医門で、その次に明石城の切手(きって)門として二役を果し、明治初年ここに移さました。明石市指定文化財。
右:月照寺の隣に並んでいる、柿本神社。名前のとおり柿本人麻呂を祀る神社です。
散策もほどほどに、せっかく明石に来たんだからと、明石焼きを食べることに。これも、明石に2年も住んでたことあるのに、食べるのは初めて。
松竹という老舗。結構有名らしく、行列が出来ていました。初めて食べる明石焼きはとろとろで出汁つけて食べるとウマウマ。これははまりそう(^.^)
明石も結構いいところなんだなぁと再確認。今度は天文科学館へプラネタリウムを見に行こうっと(^.^)
もちろん、一人ですよ(^_^;)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません