朝来市観光(橋と神社) その5

最後に紹介するのは、移動途中で寄った橋と神社。こういうの好きな人も多いのでは?
一つ目は、ムーセ旧居に向かう途中にあった鉄の橋。この橋は、なんと近代橋梁で重要文化財指定をいけているんです。
■神子畑鋳鉄橋(かみこばたちゅてっきょう)■
「神子畑鋳鉄橋は、現存する全鋳鉄製の橋としては日本最古のもので国指定文化財(建造物)です。
明治11年神子畑鉱山が再発見され、明治14年本格開坑以後、その鉱石運搬のために道路が必要となり、神子畑-生野間16.2Km、幅員3.6Kmの馬車道(鉱山道路)が建設され、多くの橋が架けられました。
この工事は明治16年4月に始まり、明治18年3月までの2年間にわたって総工事費4万円をかけた大工事であったとされます。この馬車道が神子畑川を横切るときに架けられたのが神子畑鋳鉄橋です。
木橋、石橋から煉瓦へ、さらに鋳鉄、錬鉄、鋼鉄へと発展してきた材質からみた日本橋梁史の流れのなかで神子畑鋳鉄橋は、その過渡期的なものであり鋳鉄橋発展史上最終段階のものとしての意味からも歴史的に価値があり、力学的な美しさを持った大変貴重な文化財としての橋です。」(WEB上の説明より)
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床板はは木材。かつては線路があって、鉱石を積んだ鉄道馬車が渡っていました。もちろん、記念に橋を渡ってきましたよ。反対側は私有地で橋渡ったらすぐに引き返さなければいけませんが(^_^;)
二つ目の橋も、鉱石の搬送のためにつくられた橋。
■羽渕鋳鉄橋(はぶちちゅうてっきょう)■
「羽渕鋳鉄橋は、田路川が円山川に合流する付近に架かっていた。神子畑鋳鉄橋と同じように、神子畑鉱山から生野精錬所へ銀鉱石の搬送のためにつくられた橋である。神子畑鋳鉄橋とともに、日本に2つしかない全鋳鉄橋の一つである。現在は、国道312号線沿いの羽渕地区にある円山川の河川公園で見学ができる。県指定文化財。」(WEB上の説明より)
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2連のアーチが美しい鋳鉄製の橋。現存する日本の鉄橋のなかでは3番目に古い橋であり、全鋳鉄製としては最も古い橋になるそうです。
最後は神社。羽渕鋳鉄橋から帰ろうかなとナビ画面を見たところ、すぐそばに護国神社があるのを発見。振り返ると鳥居が見える。せっかくだからと寄ってみたら、そこは「生野の変」で敗れた幕末志士を祀る神社だったのです。
■山口護国神社■
「生野の変で敗れ、自刃した長州の南八郎(旧名河上弥市、村田清風や山田顕義の一門)ら、幕末志士を祀るとともに、明治維新から昭和にいたるまでの地元戦没者を祀る。
石碑の揮毫は、山陰道鎮撫総督であった西園寺公望の書。南八郎らが自刃した旧朝来町山口の妙見山(別名:岩州山)の山麓に建つ。国道312号沿い。
尊皇攘夷派の志士として生野の変に参加して生き残り、戊辰戦争を戦い、その後、明治財界の重鎮・実業家となった旧朝来町佐中出身の原六郎(進藤俊三郎)が神社(招魂社)建立のため多額の寄付をしたうえで、完成式に出席した。」(Wikipediaより)
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左:生野の変とは、1863年福岡藩士平野国臣や南八郎ら尊攘派が、天誅組の乱に呼応して討幕のため但馬(たじま)生野に兵を挙げた事件。公卿沢宣嘉(のぶよし)を擁し、長州の下級武士や、地元農民を動員し代官所を占拠したが、三日で鎮圧されました。
右:中央の石碑の揮毫が、山陰道鎮撫総督であった西園寺公望の書。
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左:南八郎ら11人が自刃した「山伏岩」。碑にある「正義十三士自盡之址」と数が合わないのは、近くの竹薮で刺し違えた2人を加えたから。
右:境内は石碑だらけ。忠魂碑もありました。
最後の最後に、偶然にも幕末に縁のある神社にお参りできるなんてシメとしては最高です(^.^)
朝来市、いい町でした。次回は、今回行けなかった生野の町から攻めてみたいなと。なんといっても地元なんだから、郷土を深く知るためにちょくちょく訪れたいなぁとしみじみ思いました(^.^)